萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第42話 雪陵act.7―side story「陽はまた昇る」

2012-05-08 23:58:50 | 陽はまた昇るside story
繋ぐトレース「Requiem」に超えて 



第42話 雪陵act.7―side story「陽はまた昇る」

いつもの定食屋で遅い昼を済まし、店を出ると冷たい粒子が頬を撫でた。
傘を広げながら仰いだ空は、吸いこまれる真白に雪雲の厚みを増していく。
北西からの風がミリタリーコートの黒い裾を翻す、この風に心配が頭もたげて英二は眉を寄せた。

「また雪と風が強くなりましたね。朝の雪は、止んだのに、」

見あげる空は、降雪が増えていく気配が充ちている。
きっと夜まで雪は降る、そして北西風に吹雪く可能性が高い。
この予想を空に読み取っている英二の隣で、山ヤの医師も同じ見解に頷いた。

「はい、テレビの天気予報は外れでしょう。こんな時は、気軽なハイカーの入山が危ぶまれます、」

春3月の末、いま春休み期間で登山客も多い。
特に奥多摩は都心からのアクセスが容易で、気軽に考えがちになる。
そしてこの時期は春だからとアイゼンを持たないハイカーも多い、けれど奥多摩の3月はアイゼン無しでは危うい。
こんな時に吹雪になると怖い可能性が増えてしまう、この可能性への予兆に英二は首傾げた。

「はい、春休みの金曜で、今日の登山計画書は事前提出も多かったんです。中止してくれたのなら、良いんですけど、」

一昨日から昨日にかけての救助活動のあと、英二は御岳駐在所で仕事をしてきた。
本当は昨日は非番だった、けれど救助で岩崎も出たのを知っているから、仕事が溜まっているだろうと覗いてみた。
すると案の定、ネット提出での登山計画書が盛りだくさん届いていた。そして今日が山行日のものも多かった。
きっとテレビの天気予報だけを信じたら、入山するだろう。奥多摩はそういう「気軽」が命取りになりやすい。
同じ考えを巡らしただろう吉村医師も頷くと、登山靴の足をすこし速めた。

「それは心配です。私も、スタンバイしておきましょう、」

白銀に埋もれていく街を、急ぎ足で青梅署へ戻っていく。
そうして歩く英二のポケットで、携帯が振動した。

―来た、

「先生、ちょっと済みません、」

断りを入れて、歩きながら携帯を開く。
着信相手は予想通り、国村だった。

「宮田、今どこに居る?」
「いま昼から戻るとこ。もう署に着くよ、場所は?」

隣の吉村医師に頷くと、「解かった、」と頷き返してくれる。
青梅署の門を通りながら片手で傘を閉じると、携帯の向こうからテノールの声が指示を出した。

「石尾根のどっかだよ、吹雪に巻かれて道迷いらしい。しかもダブルだよ?なんだってこんな天候で登るんだよなあ、ねえ?」

語尾に「あ」「ねえ?」がついている、きっとご不満で堪らないのだろう。
それも当然だなと納得しながら英二は、通用口を潜って吉村医師と別れると寮の自室へ足早に向かった。

「国村は、今どこ?」
「芥場峠だよ、早めの巡回に出ていたんだ、下山を促したいからね。で、この状況だから、お迎えの時間かかっちゃうんだよね、」
「解かった、電車で出るから、途中でピックアップしてもらっていい?」
「よろしくね、じゃ、」

電話が切れたとき、ちょうど部屋に着いて英二はすぐ山岳救助隊服に着替えた。
冬用のアウターシェルを着こんで登山靴にゲイターを履くと、ザックの中身を目視点検する。
今朝も起きて直ぐにチェックしてあるけれど、念のために英二は必ず確認する癖をつけてある。

「あ、そうだ、」

思いついて予備のテルモスを出すと、自分の分と2つ持って給湯室へ向かう。
両方に熱い紅茶を充たしザックに納めると、廊下を足早に歩いた。
そして食堂の前を通りかかったとき、調理師が呼び止めてくれた。

「おにぎりだけで悪いけどね、持って行きなさい、」

渡された袋はまだ温かい、きっと英二の足音を聞いて気づいてくれたのだろう。
気遣いが嬉しくて英二はきれいに笑った。

「いつもすみません、ありがとうございます、」
「宮田くんこそ、いつもお疲れ様。昨日の今日で大変だけれど、気をつけてね」

温かい笑顔に送りだされて、また足早に歩き始める。
そして階段を降りるとき、後ろから同期の藤岡が追いついた。

「宮田、石尾根だろ?俺も出る、」

藤岡もスカイブルーのアウターシェル姿でザックにピッケルを持っている。
今日の藤岡は非番で柔道の稽古日だった、途中で切り上げて素早く着替えてきたのだろう。
きっと今回は救助隊全員に召集が掛かったろうな?そんな予想を思いながら英二は、袋から2つ出して藤岡の掌に載せてやった。

「今、ちょうど貰ったんだ。俺の半分で悪いけど、」
「やった、ありがとう。大野さんと分けるな、」

藤岡のパートナーは、鳩ノ巣駐在の隣在になる白丸駐在所属の先輩になる。
仲が良く訓練も一緒によく行っているらしい、嬉しそうに握飯をザックへ仕舞いながら藤岡は提案してくれた。

「でさ、道場で木下さんが声かけてくれたんだ、パトカー出すから一緒に行こうって。宮田も、って言ってくれたよ、」

木下はこの3月に第七機動隊から奥多摩交番に赴任したばかりの先輩になる。
まだ藤岡も英二も話したことは殆どないのに、気さくに声を掛けてくれた。良い人だなと感謝しながら英二は頷いた。

「ありがたいな、乗せてもらうよ。ちょっと無線使うな、」

丁度良かった、ほっとして英二は無線から国村を呼び出した。
すぐに出て、テノールの声が応答してくれる。

「こちら国村、宮田だね?」
「うん、俺だよ。ちょうど木下さんと藤岡と一緒に出れるんだ、だからパトカーで奥多摩交番に直行する」
「OK、同じくらいに到着かもね。俺、いま御岳山頂だから、」
「了解、じゃ、奥多摩交番で、」

無線を切ってロビーに着くと、木下もパトカーの鍵を持って来たところだった。
すぐ駐車場へ出ると、さっきより視界が白い。

「ちょっとキツイ捜索に、なりそうですね、」

運転席に乗り込みながら木下が、困った顔で微笑んだ。
助手席に座ってシートベルトを締めながら英二も頷いた。

「はい、石尾根縦走路だと、分岐が幾つかあるので…この視界で、もし仕事道だと厳しいですね、」

話しながら見たクライマーウォッチは14時半を過ぎていく。
この天候では気温も下がり出す、今日の日没は18時だから16時には暗くなるだろう。
あまり時間が無い、考え巡らす背後では藤岡も自分のパートナーと連絡を終えて無線を切った。

「大野さん、今どこだって?」
「うん、ウスバ乗越だって。ちょうど奥多摩交番で一緒になれそうだよ、」
「じゃあ、皆さん。ちゃんとパートナーと落合えますね、良かった」

優しい笑顔で木下がハンドルを捌いていく。
まだ第七機動隊から異動して1ヶ月だけれど、危なげなく青梅街道を緊急走行させている。
雪道にとても馴れている様子に、英二は邪魔にならない呼吸を測りながら訊いてみた。

「木下さん、奥多摩は何度かいらしたんですか?」
「はい、七機の時からプライベートでも登りに来ていました。なので道路は知っているんです、でも登山道はまだまだ、」

雪削るチェーンの音も安定させて木下は走らせていく。
その横顔はまだ20代後半だろう、青梅署独身寮にいるから家庭もまだ持っていない。
あまり年齢が違わないのかな?考えながら英二は笑いかけた。

「七機だと、岩崎さんとは機動隊の頃からですか?」
「そうなんですよ、岩崎さんのチームに僕はいたんです。だから奥多摩に配属が決まって、嬉しかったな。また一緒に仕事できるなあって」

楽しげに笑って木下は答えてくれる。
きっと岩崎は第七機動隊でも良い先輩で上司だったろう、英二は微笑んだ。

「岩崎さん、俺も一緒に仕事していて嬉しいです。たくさん学ばせて貰っています、」
「そうでしょう?岩崎さんって、七機の山岳レンジャー時代はね、海外遠征とか凄かったんです。でも気さくで、いい上司で先輩でね」

ふりしきる雪をワイパーで払いながらも、木下は視界を保って走らせていく。
優しい丁寧なトーンで話す木下は、山ヤの青年といった快活が爽やかでいる。
きっと岩崎は可愛がっているだろうな?こんなふうに尊敬する上司の違う面が見れるのは嬉しい。
嬉しくて微笑んだ英二の、座席に後ろから藤岡が口を開いた。

「木下さん。山岳レンジャーと山岳救助隊は、やはり違いますか?」
「雰囲気は似てるかな、同じ山ヤの警察官だからね。ただ、いろんな山域に行きます。機動救助隊も兼務するので、災害救助も行きました、」

機動救助隊、この言葉に藤岡の丸い目が真剣になった。
真直ぐな目で木下の目をバックミラー越しに見て、静かに藤岡は口を開いた。

「東北にも、行かれましたか?」

藤岡は宮城県出身で、震災の津波に罹災した。そして元警官だった祖父を失っている。
このことを藤岡が話してくれた想いが、瞳の奥で熱いものとふれてしまう。
そんな藤岡と英二をミラー越しに見、木下は優しい笑顔で頷いた。

「はい、行きました。僕は宮城県の海岸線でした、」

ちいさく息を吐く気配が、そっと後部座席に流れる。
そして穏やかに笑って、藤岡は頭を下げた。

「俺、宮城県出身なんです、あのとき津波で罹災しました。お世話になりました、」

こうした実直な姿勢の同期が英二は好きだ。
ミラー越しに木下は会釈して、藤岡に笑いかけた。

「こちらこそ、お世話になりました。宮城の方達には、とても親切にしてもらって。逆に励まされてばかりでした、ありがとうございました」
「いいえ、本当に、ありがとうございました、」

ゆっくりひとつ瞬いて藤岡が笑った。
バックミラーに映る優しい眼差しを見つめて、藤岡は口を開き言葉を続けた。

「俺、あのとき機動救助隊の方に勧められて、青梅署に卒配希望を出したんです、」
「そうだったんですか。救助隊員に声を掛けてくれたんですか?」

ミラー越しに藤岡に笑いかけて訊いてくれる。
その優しい眼差しに藤岡は頷いた。

「はい、祖父の遺体収容の時に、声を掛けさせた頂きました」
「そうでしたか…津波で?」

おだやかなトーンがごく自然に問いかける。
すこし微笑んで藤岡は明瞭に答えた。

「はい、行方不明でした。でも救助隊の皆さんに見つけて頂いたんです。遺体の姿でした、それでも嬉しかったんです。
あの状況でよく見つけて頂きました…本当に感謝しています。それで俺も救助隊を目指してみたくて、相談させて頂いたんです」

木下の大らかな目が、優しい温もりに笑んだ。
そして和やかなトーンに、藤岡へと言祝ぐよう言葉をおくってくれた。

「第七機動隊の主義の1つは『人の痛みがわかる警備』です。ご自身の経験がある藤岡くんは、この主義に相応しいと思います。
ですから、アドバイスされた方は、藤岡くんの事を誇りに思うでしょう。その方と一緒に任務に就くかもしれない、その時は、きっと喜びます、」

優しい木下の言葉に、藤岡の丸い目から涙がひとつ頬をながれた。
涙ながしながら笑って、藤岡は頭を下げた。

「ありがとうございます、」

助手席の肩越し見つめながら英二は、同期の姿に心から敬意を想った。
そんな藤岡にミラー越し優しく笑いかけて、木下はパトカーのエンジンを停めた。

「僕は何もしてないですよ、でも嬉しいです。こちらこそ本当に、ありがとうございます、」

きちんと振向いて木下は藤岡に微笑んだ。
第七機動隊のマークは「疾風迅雷の警備、人の痛みがわかる警備」を象徴している。
この先輩は七機の象徴に相応しい。英二は新任の先輩への敬意に微笑んで、パトカーの扉を開いた。

奥多摩交番の脇に停まったパトカーの内、1台の見慣れたミニパトカーが待っている。
このパトカーの運転手は無事に御岳から下山した、そして先着している。
そんな予想にほっとして、英二は奥多摩交番に入った。

「待ってたよ、俺の愛しのパートナー、」

透明なテノールが笑って、がばり英二は抱きつかれた。
そのザックを背負う背中を軽く叩いて、英二は微笑んだ。

「お待たせして、ごめんな?ほら、副隊長の説明が始まるから、ちゃんと聴こう?」
「うん、聴くよ、」

素直に離れて国村は隣に立った。
けれど藤岡は丸い目を大きくして、感心したように言った。

「こんなとこでも抱きつくなんてさ、よっぽどなんだね?」

こんなときにまで、こんなこと引っ掛からないでよ藤岡?
そう言おうとした英二より先に、可笑しそうに細い目が笑んでテノールは答えた。

「そ。俺たちはね、よっぽどだよ?ね、ア・ダ・ム、」
「…もう、なんでも良いからさ。説明を聴こうよ?」

こんな急場でも国村は笑ってくれる。
これだけ余裕があるなら国村は大丈夫、そう思いたい。
けれど国村の傷は、そんなに単純じゃないとも解かっている。
さっき吉村医師から聴いた懸念を想いながら、英二は後藤副隊長の説明を待った。



「どうやらな、鷹ノ巣山あたりで2組とも迷っているらしいよ。だから捜索は3方向から同時に登ろう。
奥多摩交番起点で石尾根縦走路からのルート、東日原から稲村岩尾根ルート、そして浅間尾根ルート。この3方向から入山する。
ここが起点のチームは縦走路を登りつめて行くよ、稲村岩ルートは鷹ノ巣山頂付近を見た後にここへ抜けて下山していこう。
浅間尾根ルートは鷹ノ巣山避難小屋から七ツ石山まで抜けて、七ツ石周辺の脇道を見てくれ。トラメガで呼びかけながら、頼むよ
そしてこれは重要だよ?全員、絶対に無理はするな。この悪天候だ、危ないと思ったら避難小屋でも、テントでもビバークしてくれ」

一挙に説明すると後藤は、3チームに隊員を分割した。
英二と国村は浅間尾根の隣のノボリ尾根ルートを分担する。
このルートは現在は廃道になり迷いやすいポイントになる、ここに英二と国村は秋も捜索で入った。
その経験で今回も担当する。素早い打ちあわせが終わると英二は、馴染のミニパトカーに乗り込んだ。

「あー、やっぱりさ?助手席に宮田がいると、落着くよね、」

からり透明なテノールは笑って、機嫌よくハンドルを捌きだした。
ほんとうに懐かれているな?そんな内心の感想が自分で可笑しくて英二は笑った。

「そういうもん?」
「そういうもんだね、」

そんなふうに笑いあってすぐ、峰の登山口に着いてミニパトを降りた。
アイゼンを履いて仰いだ空は、すこしだけ雪が弱まっただろうか?
それでも風のなか細かな粒子の白銀が、あわい光に容赦なく奔っていく。
この悪天候の中、遭難者は今どうしているのだろう?

「じゃ、行くよ?」

明るいテノールの声にひきもどされて、英二は頷いた。
ふたり一緒に入山していくと、テンポよく登るごと雪は深くなっていく。

「秋とは違って雪が深いから、結構ラッセルがキツイかもだけど。ま、イイ訓練だよね?」
「そうだな、訓練って思えばさ、なんでも楽しくこなせるな、」
「ほんと、そういうとこ。宮田って、真面目だよね?」
「うん、俺は本来、堅物だよ?」

そんな会話を交わしながら、高度を稼いでいく。
そして榧ノ木尾根との分岐にある落葉松で、トラメガをだして呼びかけをした。

「青梅署山岳救助隊です、聴こえたら、大きな声で返事してください!」

いったん切って耳を澄ませる、けれど何も応えない。
この降雪と風に遮られて音自体があまり響いては行かない、この状況は困難だと身に沁みてしまう。

「雪がこれだけあると、音自体が吸いこまれて聴こえないな、」
「うん…吹雪の捜索は、きついな、」

この風雪のなか、行動するのは難しい。
さっき後藤が最後に言った「絶対に無理をするな」の意味が解かるなと思う。
ときおりラッセルしながら英二と国村は、榧ノ木山を抜けて水根山へと辿り着いた。
見渡す尾根上には誰の姿も見えない、それでも視界はすこしずつ回復され始めている。すこし吹雪が弱まっただろうか?
考えながら見たクライマーウォッチの時間は、15時を回っていた。

「日没って何時だった?」
「18時、出来れば、あと1時間で見つけたいな?」
「だよね?さて、副隊長に連絡するかな、」

言いながら国村は無線を後藤副隊長に繋いだ。
こちらの現在地を伝え、遭難者たちの近況を聴いていく。
無線の向こうに頷いて、ため息交じりに国村は無線を切った。

「どこかの樹林帯に居るみたいだね、ま、雪を少しでも避けられる場所に居るのは、正しいけどさ?」
「でも、どこに居るのか全く分からない?」
「そ、この雪で目印らしきものも解からないしね、景色も真白で訳わかんないみたい。音も、吹雪の音で消されちゃうし、」

捜索自体が目隠しされている。
そんな感想がため息にもなってしまう、それでも自分たちは探し出さないといけない。
英二と国村は石尾根を、雲取山頂方面へ登り始めた。

「行方不明の方の方は?」
「相変わらず、連絡とれないらしい」
「そっか…このあたり携帯は繋がり難いから。無事にビバークしているなら、いいな、」

すぐに鷹ノ巣山避難小屋が現れて、日蔭名栗峰へとゆるく登って行く。
積雪は深い、軽いラッセルをしなが進む道は、膝上まで充分に潜ってしまう。70cmはあるだろうか?

「この3月で、この積雪ってさ。都心から来ると、びっくりするだろうね?」
「うん、ちょっと考えられないだろうな。途中で引き返してくれるひとは、良いんだけどね、」

話しながら登って行く、その防火帯に蛍光色のグリーンが見えて英二は立ち止まった。
英二の気配に気がついて、国村も立ち止まる。
そして英二の視線を追った国村の手元から、ピッケルが離れた。

「国村?」

名前を呼んでも応えない。
登山グローブの手はピッケルを離したまま、ぼんやりと竦んで動かない。

「おい、国村?…」

様子がおかしい。
すぐに英二は雪を踏みこして国村の隣に行った。

「くにむらっ、」

名前を呼んで抱きかかえるよう顔を覗きこむ。
覗きこんだ細い目が、ようやく焦点が合って英二を見てくれた。

「…あ、みやた、…」

手から離れたピッケルは、肩掛けしたベルトからぶら下がっている。
英二の顔を見つめる透明な目は、心が傾ぐような色にどこか宙を見るよう定まらない。
きっと、吉村医師の懸念が的中した。

「国村、大丈夫だ、」
「…ん、」

呆然と風雪のなか立ちつくすパートナーを、英二は抱きしめた。
ぽん、とザックの背中を叩いて覗きこんだ雪白の顔は、泣き出しそうに見つめてくれる。
その目を見つめ返して、英二はきれいに笑った。

「大丈夫だよ、国村。あれは雅樹さんじゃない、いいな?」
「…うん、…ん、だね、」

英二の言葉に頷いて、ほっと肩で息を吐く。
そうして少し微笑んだ顔に、英二は大らかに微笑んだ。

「なあ国村、俺たちは山岳救助隊員だよ。今から、あの緑色の確認をしよう?行けるよな?」
「うん、俺は行けるよ、」

見つめてくれる透明な目に、いつもの冷静が戻ってくる。
ひとつ呼吸して、ピッケルを握りなおすと国村はラッセルをして森へ進み始めた。

― たぶん、揺り戻しが来る、

数日前に国村は、15年越しの痛みに向き合い始めたばかりでいる。
そんな国村の心は赤剥けのような状態で揺れやすい。
この状態の為に国村の心は、今から目撃するものに大きく傾ぐ可能性が高い。
それでも自分は、唯一のザイルパートナーとして支えきる。この覚悟を据えながら英二は、蛍光緑へと雪を進んだ。

直ぐ前を、スカイブルーのウェアの背中が歩いていく。
この半年間、ずっと見つめ追いかける最高の山ヤの背中が、今日はどこか儚く見える。
この感じは北鎌尾根でも見つめていた、そしてあの時と同じように心が軋みそうになる。

あのとき約束のルートをアンザイレンの約束に繋いで、15年の時空と傷を国村は超えた。
そして今この奥多摩に立つ現場でも、15年の傷を国村は超えようとしている。
けれど、15年間ずっと疼き続けた傷は、簡単には癒せない。

この癒しは、難しいと解っている。
それでも、なにがあっても支えたい、トレースをきちんと繋がせてやりたい。
そうして国村には、最高の山ヤに相応しい道を真直ぐ歩いてほしい。
この想いと覚悟は、慰霊登山が終われば完了とはならない。
むしろあの瞬間がスタートだろう。

雅樹と「永訣」をした瞬間。
あの瞬間が雅樹と、最愛の存在と死別した哀しみを受容れ背負って生きる、スタートになっている。
このスタートはきっと、哀しい苦しい寂しい。
誰でも本気で愛したのなら「最愛の人を亡くす」不幸を自分に認めたくはないから。
だからこそ国村は北鎌尾根に15年間登れなかった、認めたくない心のままに。

それでも自分は国村を超えさせた。
あんなふうに、英二の危険を盾にするやり方は強引だと解かっている。
それでも国村は英二を慕い信じて超えてくれた、だから英二には責任がある。

雅樹と国村の「永訣」を明るい先への道標にすること。
永遠の別離でありながら、永遠の連理となる約束であること。
そう国村が抱いて行けたなら、この先もずっと山ヤとして誇り高く生きていける。
そうして誇り高い最高の山ヤとして相応しいように、支えていく。この責任がある。

―信じて、任せてくれたんですよね?

いま目の前を歩く無垢の瞳。
この瞳を愛した山ヤの医学生へ祈りながら歩いている。
この敬愛する先輩と自分は似ていると誰もが言う、ならば「似ている」にも役割があるだろう。
だから自分には、きっと出来る。そう信じて向き合っていけたら良い。

そして今きっと、支える瞬間が近づいてくる。

雪は防火帯の奥の森に近づくごと、深くなっていく。
ふる雪はすこし弱まり視界が幾分明るくはなってきた。
昨夜からの積雪と日中からの降雪に埋もれながら、ラッセルをして進む。
あと1m程になったとき、英二は国村に声を掛けた。

「国村、リードを交替しよう、」

透明な瞳が提案を凝っと見つめてくる。
真直ぐに瞳見つめ返すと、国村は微笑んだ。

「いや、大丈夫だね。いつもどおり、俺がリードで行くよ?俺がエースなんだ、だから俺が行く、」

静かな落着きと覚悟が細い目に映っている。
もし自分の意志で行けるなら、超えるためにその方が良い。英二は頷いた。

「うん、付いていくよ、」
「おう、キッチリ付いて来てね?」

底抜けに明るい目は笑ってくれる、けれど瞳の奥ひとすじ張りつめている。
ひとつ呼吸して英二は、体を沈める蒼い雪のなかアンザイレンパートナーのすぐ後ろを進んだ。
さくりさくり、雪を進んでいく、けれど森の蛍光緑は動かない。きっと予想通りの結末なのだろう。
哀しみと予想を同時に見つめる先で、のびやかな背中が止まった。

蛍光グリーンのウェアを着た、冷たく凍りついた生命の抜け殻が雪に埋もれていた。

「国村、」

声、掛けてもテノールの声は応えない。
細い透明な瞳はただ、凍れる死体を見つめ立ちつくす。
想ったとおり、揺り戻しが国村を浚いこんでしまった。

― 無理もない、

このことを吉村医師も懸念し、英二にも教えてくれた。
だから覚悟はして今も現場に立っている、ひとつ呼吸して英二は秀麗な貌を覗きこんだ。

「国村、報告の連絡しよ、」
「…あ、」

透明な瞳の焦点が合って、英二を見つめ返してくれる。
優しく笑いかけて英二は言葉を続けた。

「国村、刑事課への連絡をお願いできる?」

凍死体は行政見分が必要になる。
その行政見分の執行者は警察官になる、まず刑事課への連絡をしなくてはいけない。
この業務に意識をひきもどされて、国村の顔が山ヤの警察官に切り替わった。

「うん、するね。宮田は副隊長に掛けてくれる?」
「了解、」

声をかけながら英二は、国村の腕を掴んですぐ隣に寄りそった。
その腕の感触に細い目が笑って、登山グローブの手が無線を掴んでくれる。
そして国村は無線を青梅署に繋ぐと報告を始めた。

「山岳救助隊の国村です、凍死体を発見しました。場所は日蔭名栗峰、男性…」

落着いた声は正確に報告を続けていく。
その表情を見つめながら英二も無線連絡を入れると、すぐ応答が戻ってきた。

「宮田、発見か?」
「はい、副隊長。ご遺体を日蔭名栗峰で発見しました。男性1名、新雪を被っている様子から、本日正午前には死亡と思われます」
「そうか、…たぶん、ご家族から通報があった方だな。50代くらいだろう?」
「はい、その位です。見たところ外傷もありません、このあと見分を始めます」
「ああ、頼むよ。収容だが、ヘリの依頼をかけてみるよ。雪雲がすこし薄くなってきた、飛んでくれるかもしれん、」

報告連絡を終えて無線を切ると、隣でも報告を終えたところだった。
無線機を握りしめたまま、透明な目は緑色のウェアを見つめている。

「国村、」

声を掛けたけれど、応えてくれない。
また沈黙の底に意識は潜りこんで、ただ透明な目は凍死体を見つめている。
その目が痛切に哀しくて、英二はザイルパートナーを隣から抱きかかえた。

「国村、大丈夫だ。あれは雅樹さんじゃない、」
「…あ、」

透明な瞳が動いて、英二の顔を見てくれる。
縋るような視線を柔らかく受けとめると、英二は温かに笑んだ。

「よく見ろよ、年齢だって違う。全くの別人だよ?」
「ん、…ちがうね、」
「そうだよ、全くの別人だ。大丈夫だ、そうだろ?」
「うん、」

話しかけながら英二は、見分用グローブを嵌めると遺体の傍らに雪の中で片膝をついた。
合掌して敬意を捧げると、自分のパートナーを見あげた。

「国村、状況写真の撮影を頼む、」
「うん、」

すぐに見分用のカメラを出し、国村も合掌して撮影を始めた。
ウェアのポケットなど調べると運転免許証が出てくる、これで通報があった行方不明者と判明した。
外傷等はやはりない、硬直が見られるのは凍結と時間の経過を知らせてくれる。
確認を終えて英二はグローブを外すと、無線連絡を再び後藤副隊長へ繋いだ。

「宮田です、運転免許証で確認がとれました。やはりご家族の通報があった方です。軽装備の為に低体温症を起こした様子です」
「軽装備か、…」

ほっと溜息が無線の向こうで零れ落ちる。
こんな初歩的な装備ミスが山では死を招来してしまう、そして奥多摩はこの初歩的ミスが多すぎる。
首都近接の山岳地域という特殊な条件が生み出す、この陥穽を傷みながら英二は続けた。

「低体温症により身動きが取れず、凍死に至ったとみられます。死亡推定は、ご遺体の積雪状態からも午前0時以前だと思います、」
「そうか、昨日の夕方からの吹雪に巻かれたんだな…うん、見分、雪の中ありがとうよ。
収容だがな、消防のヘリが飛んでくれるよ。今なら雪も雲も薄まっているから行ける、ホイスト準備と発煙筒を頼むな、」
「はい、ありがとございます、」

無線を切ってすぐバスケット担架の準備をする。
ふたりで協力して遺体を乗せて、担架に固定していく。
そうして手を動かしていく国村は、いつもより口数が少ない。

国村が雅樹の死を受けとめて、まだ3日程度。
このタイミングで雅樹と同様の凍死体を見ることは、衝撃が大きい。
それでも山岳救助隊員として山岳レスキューのプロであるなら、私的感情など許されない。
なにより山ヤであるなら、真正面から乗り越えるしかない。遺体のホイスト準備を終えて、英二は国村に微笑んだ。

「雅樹さん、山でレスキューされていたから。凍死した方を見送ったことも、あったんだろ?」
「うん、あったよ…」

テノールの声がぽつり呟くよう教えてくれる。
細い目がすこしだけ笑んで英二を見つめながら、そっと教えてくれた。

「この辺りでだった、俺も一緒に登ったときにね、…それで、後藤のおじさんに連絡してさ、」

ほっとため息吐いて国村は小さく微笑んだ。
この今と同じような状況に、記憶が国村の心を揺らしたのだろう。
頷いて英二は自分の大切なザイルパートナーに笑いかけた。

「きっと今、一緒に雅樹さんも作業してくれてるな?」

透明な目が英二を見つめる。
その目がすこし和んで、そして笑ってくれた。

「だね…きっと、一緒だよね?」

素直に笑って頷いた顔は、明るさが戻ってきている。
もう少し笑わせてあげたくて、ゆるやかな降雪のなか英二は微笑んた。

「このあと御岳駐在まで一緒に戻るよ、仕事あがるの待つから、一緒に青梅署に戻ろう?夜は国村の酒も奢ってやるよ」
「うん、いいね。じゃあさ、署への帰りがけに酒屋、寄ってく?」

好きな酒の話になって、すこし嬉しそうに笑ってくれる。
良かったなと思いながら英二は相槌を打った。

「制服姿で酒を買うのも、なんか悪いな?」
「うん?そうかな?でも宮田は気にするか、堅物だからさ、」

いつもの調子で飄々と聞いてくる。
その顔も笑顔がも、いつもの明るさが戻っていく。

「堅物だよ?俺は、」
「そうだね、堅物エロ別嬪なんてさ、ギャップ萌えるね、み・や・た、」

明るく笑った国村の向こうから、ヘリコプターの機影が小さく光った。

「国村、ヘリが来た、」
「お、助かったね。発煙筒だな、」

どこか憔悴があるけれど、国村は笑って発煙筒をセットしてくれる。
いま国村にとって、この凍死者の姿には2重の記憶が重なってしまうだろう。
幼い日に雅樹と発見した遭難死の姿。
そして、雅樹が左腕と左足を負傷したままに、冷たく凍えた姿。
どちらにも国村の哀惜と愛慕が映りこむ、それが傷みになっている。

―…遺体の姿でした、それでも嬉しかったんです。
  あの状況でよく見つけて頂きました…本当に感謝しています。

藤岡の言葉がふと心にふれてくる。
この言葉を励みに山岳救助隊員も現場に立っている、それは雅樹も同じだったかもしれない。
山ヤの医学生として救命救急士として、山の遭難現場にも立っていた雅樹なら、今なんて国村に声を掛けるだろう?
そんな考えを巡らす英二の頬に、強い風が雪と一緒に叩きつけはじめた。

「あとちょっとでヘリが真上に来る!宮田!風に気をつけろよ、煽られるから!」
「ありがと!気を付ける、」

ホバリングの風が雪の梢を揺らし、尾根の雪をふるわせる。
南の方の雲が切れて、いくらか明るくなり始めた。
上空に飛来した消防庁の大型ヘリコプターから、航空隊員が下降してくれる。
ホイスト準備を整えると、航空隊員は短く礼を言った。

「準備ありがとうございます。もう死亡されているので、奥多摩へリポートに降ろします」
「助かります、ありがとうござます、」

午後17時過、遺体のヘリ収容が完了した。
南の空に飛び去る翼を見送りながら、無線で後藤副隊長に報告をする。
それらが終わると一休みに、鷹ノ巣避難小屋に座りこんだ。
英二はザックから紅茶を入れたテルモスと握飯を出すと、国村に渡してやった。
熱い紅茶をひとくち飲んで、握り飯を頬張ると透明なテノールは幸せに笑んだ。

「うん、生き返るな。宮田のこういうトコ好きだね、ありがとう、愛しのアンザイレンパートナー。」

やっぱり淹れてきて良かったな?
喜んで貰えたことを嬉しく思いながら、英二は1個の握飯を食べ終えて微笑んだ。

「握飯は、調理師さんに感謝して?」
「そりゃ、もちろんね。でもこれって、おまえの仁徳ってヤツだよ。さすが俺のアダムだね、」
「ありがたいけれど、なんか申し訳ないな?」

きれい笑って英二は紅茶を啜りこんだ。
まだきちんと熱いままの茶は温まる、ほっと息を吐く温度が嬉しい。
熱い茶に目を細めていると国村が聴いてくれた。

「まだ1個しか食ってないね、宮田にしちゃ、ゆっくりだな?早く食べちゃいなよ、まだ捜索があるんだからさ」
「うん、もう俺の分は食べたから。あとは国村のだよ、」

微笑んで答えた英二に、底抜けに明るい目がひとつ瞬いた。
手に持っていた2個目の握飯を飲みこんで、国村は口を開いた。

「全部で5個あったよね?だから、少なくともあと1個は宮田のだよ?」
「ありがとな、でも本当は8個で4個ずつだったんだ。だから、あとは国村の分だよ」

礼を述べながら英二は微笑んだ。
そんな英二を見て細い目は温かに笑んで、白い手は2個残っている1つを半分に割った。

「藤岡と木下さんにあげちゃったんだろ?ほら、あと1個半は宮田の分だよ、」

半分を掌に乗せてくれながら笑って、半個の片割れを国村は口にした。
素直に掌の半分を食べながら、英二は笑いかけた。

「俺、昼飯も遅かったからさ?この1個、国村にやるよ。巡回で腹、減ってるだろ?」
「そうか?じゃあ、はい、」

また残り1個も半分に割って英二に差し出してくれる。
悪いなと目を見ると、底抜けに明るい目は愉しげに笑ってくれた。

「俺たちはさ、生涯のアンザイレンパートナーだろ?食料もちゃんと分け合おう、俺たちは一蓮托生なんだ、」

ちゃんと対等でいよう?
そう示してくれるのが嬉しい、なにより元気そうなパートナーの様子が嬉しくて英二は笑った。

「ありがとう、うれしいよ?」
「あ、また良い顔して笑うね?ホント宮田って笑顔がイイね、この笑顔で皆、親切にしたくなるんだよな、」
「なんか、申し訳ないな?」

そんな会話をしながら休憩を終えると、ふたり小屋の外に出た。
白銀の尾根に、あわい黄昏の陽光が射しはじめている。ふる雪に陽のかけら輝いて、白い空からふりつもる。
尾根の遥か遠くに灯りだした街の明りが、どこか切ない望郷を想わせた。
ふりかえった防火帯の森にも雪はふり、どこに死者が倒れていたのかも雪は跡隠していく。
あの男性も自宅への望郷を見つめただろうか?

「あ、無線。副隊長かな?」

テノールが笑って国村は無線を繋いだ。
そして短いやり取りの後、からり笑って教えてくれた。

「見つかったって、もう一組の遭難者。疲れているけど、元気だってさ、」
「よかった、」

無事が一番うれしい。うれしくて英二は綺麗に笑った。
この想いはレスキューの現場に生きるなら、誰もが抱いているだろう。
きっと雅樹はこの想いに山ヤの医学生として生きていた。
そして国村も同じ想いを抱いていることが、嬉しそうな笑顔から解る。

「ホント良かったよね、でもさあ?」

嬉しそうな笑顔が「さあ」の語尾に唇の端を挙げる。
そして国村節が、いつもの口調に始まった。

「三ノ木戸あたりの仕事道で見つかったらしい、疲れたから近道しようとして迷ったんだってさ。
でもね、ヘッドライト持っていないし、地図も無いんだってさ?そんなんで近道したら、あの世への近道になっちゃうよな、ねえ?」

相変わらずの国村節が遭難者にぶつけられる、そう思うとちょっと怖い。
けれど元気に怒っている姿は嬉しくて、英二は困りながらも微笑んだ。


(to be continued)

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