萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第34話 萌芽act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-02-21 21:38:51 | 陽はまた昇るside story
ただ、温もりをとどけて




第34話 萌芽act.2―side story「陽はまた昇る」

本仁田山を下山すると7時だった。
安寺沢の登山口に停めておいた国村の四駆に乗ると、細い目が笑って提案してくれた。

「おまえさ、野陣尾根に行くって言っていたな?途中まで送ってやるよ、」
「ありがたいけどさ、時間大丈夫か?」
「まだ7時だ、このまま御岳駐在まで行ったらね、早すぎだろ?」

そんなふうに気軽に笑って、八丁橋まで送ってくれた。
白銀の雪かがやく橋での別れ際、底抜けに明るい目が真直ぐに英二を見つめて言ってくれた。

「宮田。俺はね、おまえを守るよ。
おまえは俺の唯ひとりのアンザイレンパートナーだ、そして、大切なひとが愛する男だよ。
俺だってね、宮田?おまえが想ってくれるように、おまえも大切なひとも守りたいんだよ。これはね、俺の誇りを懸けた約束だ」

透明なテノールの声は誇らかな自由に温かい。
この「大切なひと」が誰かなんて訊く必要もなく解る、自分と国村はよく似ているから。
細かい言葉が要らない信頼が幸せで、そんなアンザイレンパートナーの存在が幸せで英二は心から笑った。

「うん、ありがとう。大切なひとのこと、頼んだよ?…ほんとうに、ありがとう。国村、」
「こっちこそだよ?俺にとって宮田はね、掛替えのない大切な『鍵』だ、」
「鍵?」

思わず訊きかえした英二を底抜けに明るい目が見つめてくれる。
見つめる温かいまなざしが大らかに笑って応えてくれた。

「最高峰へ登っていく夢が現実に動き始めたのはアンザイレンパートナーのおまえが現れたからだ。
俺が大好きな雅樹さんの想い、それを繋いで吉村先生の時を動かしたのも宮田、おまえだよ。
そしてね…大切なひとと俺の時間がふたたび動き出したのは、宮田が俺の隣に立ったからだ。そうだろう?」

大らかな温かいまなざしが真直ぐ英二を見つめてくれる。
こんなふうに自分の努力と想いを真直ぐ受けとめられている幸せが温かい、英二はきれいに笑って頷いた。
素直に肯う英二に国村は、率直な笑顔を向けて想いを告げてくれた。

「この奥多摩に宮田が来て俺のパートナーとして隣に立った、そして俺の大切なものは時を刻み始めた。
おまえは俺の大切な時を動かす『鍵』になっている。だから宮田、おまえの居場所はここだ。俺に並ぶのはね、おまえだけだ」

純粋無垢で力強い意志を真直ぐに向けてくれる。
必要だと偽らない心で言ってくれる真実がうれしくて、きれいに英二は大らかな笑顔を咲かせた。
前は周太の隣だけが居場所で帰る場所だった、実母を捨て実家に帰れない自分には恋愛だけが全てだった。
けれどいまは友人がいる、生涯をかけて互いを守り尊敬しあうと決められるパートナーがいる。
出逢ってずっと周太だけを見つめていた、周太だけ掴んで縋っていた、たとえ真剣でも盲目の愛だった。
けれど盲目の愚かさに気がついて静かに開いた掌には、こうして温かで頼もしい友情が明るく笑ってくれている。
もう独りじゃないんだな、そんな想いの温もりに微笑んで英二は大好きな友人に約束をした。

「ありがとう、国村。俺はね、おまえのアンザイレンパートナーを一生やるよ?
だからさ、おまえの横に並ぶためにも俺は、いつも無事に帰るよ。今日もちゃんと帰る、今夜も一緒に飯、食おうな?」

大丈夫、俺は居なくならないよ?
切長い目に想いを告げながら英二は夕飯の提案を国村に示した。
示された想いに底抜けに明るい目が笑って、愉しげに頷いてくれた。

「おう、御岳駐在から戻ったらね、診察室に直行するよ?またコーヒー頼んだよ、宮田」
「うん、淹れる支度しとくよ?今日はさ、吉村先生の手伝いが俺、ちょっとあるから自主トレ行けないけど、ごめんな?」
「昨日も言っていた鑑識の件だね、また話、俺にも聴かせてくれよな?」

いつものように笑い合って国村は四駆に乗込んだ。
運転席の窓を開けて「じゃ、またあとでね、」と底抜けに明るい目で笑うとハンドルを国村は捌いて氷川方面へと四駆を向けた。
来た道を戻っていく四駆を雪の林道で見送ると英二は、一旦脱いでいたアイゼンを履きなおした。
そして雲取山を仰ぐと笑って、朝陽に明るむ雪の橋を渡った。

日原林道は雪の静謐にねむりこんでいる。
この場所を周太と歩いた11月の中旬過ぎは、錦秋の秋だった。
落葉松の黄金、漆の朱色、蔦の深い赤紫。目を醒ます真赤な紅葉、常緑樹と針葉樹の濃緑、黒い幹。
あざやかな紅から黄色のグラデーションと濃緑から黒が深い、色彩の対照と輝きにあふれていた。
木洩日も赤に黄あわい緑と瞬きながら道を照らしていた、ここの秋は色も光もあざやかだった。

―…うれしい、…目の底まで、紅葉で染まりそうになる

錦秋の秋を見あげて呟いた声は明るく微笑んでくれた。
13年前の父の殉職事件にひとつ決着をつけた後の安堵と、秋の美しさに周太の笑顔は輝いていた。
その笑顔がうれしくて幸せだった、3ヶ月前の晴れた秋の陽ざしのなかでの記憶。
やさしい記憶を見つめながら英二は、雪そまる日原渓谷を見渡した。
いま白銀のねむりにつく日原は、朝陽の輝きにどこまでも透明に佇んでいる。
ひとり雪を踏むアイゼンの噛みしめる音がただ、しずかに雪へ吸い込まれて閑寂が響いていく。

こんな静謐も自分は好きだな。おだやかな想いに微笑んで英二は、唐松谷林道分岐点から右へと入った。
すこしブナ林を歩くと林道をすこし逸れる、消えかけた仕事道へと入っていく。
歩を進めるたびに雪を踏みしめる音と白い吐息が、静かな山の空気にとけこんだ。
そうして並ぶ木々を縫っていくと、ぽっかりとした空間が急に拓ける。
いつもどおりの空間がうれしくて英二は微笑んだ。

雪に埋もれる切株が2つと倒木が1つある。
その奥には空を抱くように豊な梢を戴いた大きな木が佇んでいる。
後藤副隊長から譲られたブナの巨樹は、今日も雪を梢にまとって端然と佇んでいた。
根を踏まないように気をつけて歩み寄ると、英二は右掌の登山グローブを外していく。
そして素手になった掌を雪まとう幹に添わせて、ゆっくりと梢を見あげた。

―…きれいだ、…ここに連れてきてくれて、ありがとう

あの日ここに連れて来たとき、ブナを見上げた周太は溜息をついた。
この幹に頬寄せて、樹皮の下を流れる水の音を静かに聴いて微笑んでいた。
瞳を閉じていても樹幹へ耳澄ませていても、顔はこちらに向けて微笑んでいた。
すぐ近くで顔を見つめて独り占めに出来ること、それがあのときは幸せでうれしかった。
今はあの喜び以上に充たされた想いが心の底から温かい、やわらかく笑って英二は口を開いた。

「名前で呼んでくれないの?」

― わがまま訊いてよ、周太。ずっと俺の名前を呼んで?
  わがままを、ずっと?
  そう、ずっと名前で呼んでもらう、わがまま

まだあのときは「宮田」と周太は呼んでくれていた。
けれど名前で呼んでほしくて英二は、この大切なブナの木の下で「わがまま訊いて」とねだった。
呼んでくれたら良いな、そう見つめた想いの真中で黒目がちの瞳は微笑んでくれた。

― …英二?

英二を見つめて呼んで、きれいに周太は笑ってくれた。
やっと名前で呼んでもらえた。うれしくて幸せだったあの日の記憶。

― 英二、…俺も、大好きだから

そんなふうに素直に想いを告げてくれた。
あの想いは今も変わらずに寄せてくれている、ただ、あの時と違うのは周太が本当の初恋を思い出したこと。
その初恋はあまりに純粋無垢で英二の心まで響いて、その恋を守ってあげたいと想ってしまった。
その恋の相手は純粋無垢で誇らかで自分も大好きな男だった、だから尚更に大切にしてあげたいと願ってしまう。
だからこそ。大らかな温もりを抱いて英二は、あの日に周太に告げた言葉をふたたび声にした。

「知ってるよ、でも俺の方がもっと好きだ…笑顔を見せて、俺の名前を呼んで…」

このブナの木の下で初めて名前で呼んでくれたらいい、周太から望んで初めての口づけをして欲しい。
大切なこの場所で、大切な隣との、大切な記憶をつくりたい。
そんな想いであの日ここへ周太を連れてきた、そして「愛している」と自覚した。
まだ独善的な盲目の愛だった、自分が周太に向ける想いが最優先で束縛も正しいと想っていた。
愛してしまった自分は周太を失う日には壊れるかもしれない、そう想った。

けれどいま自分は壊れていない、充たされた心は温かい。
充たされた心が周太の自由な幸せと笑顔を見つめたいと願っている。
自分はもう周太を愛してしまった。そして自分はもう周太に愛されている。
大切なこの場所で大切なひとと告げあって、あの秋の陽のなか大切な想いにおちた。
いま自分は周太の唯ひとりの相手じゃなくなったけれど、それでも想いは何ひとつ色あせずより深くなっている。

― もう、ずっと、愛しているんだ…言えなかったけれど、本当はもうずっと、愛している

周太からの初めてのキスの後、そんなふうに告げてくれた。
この想いは今も真実のままだろう、そして今は甦った初恋の相手のことも周太は愛している。
それは周太の愛情が半分になったわけじゃない。周太はふたり分の想いを受けとめて、そのぶん大きな愛情を抱いている。
だからこそ、そんな周太のふたり分の愛情よりもっと大きな想いで見つめていけたらいい。
もう想いは枯れることはない、だから今の自分は本当に「もっと愛している」と胸を張れる。
いま素直な想いをのせて英二は、秋の陽に告げた言葉をふたたび声に出して微笑んだ。

「きっと、俺の方がたくさん愛している」

樹幹に低く響いた自分の声に英二は笑った。
こんなに自分は明るい想いでいまここに立っている、それが誇らしい。
誇らかな想いを見つめて英二はブナの梢を見あげた。

ブナは用材に不向きなために「用の無い木」と書く、けれどブナは山の貯水力を担ってくれる。
ただ静かに佇んでブナは今日も、氷と雪をまといながら山の水を豊かに抱いている。
水は生命を廻っていく、それを抱いて佇む豊かな包容力がブナにはある。そんなブナが英二は好きだ。
ひそやかに物静かなブナの姿にふっと英二は一節を口にした。

「…いついかなるときも、尽くして求めぬ山のレスキューでいよ。目立つ必要は一切ない…」

富山県警山岳警備隊員の信条のことば、これをクリスマスの朝に新宿へ向かう電車で読んだ。
そして「最高の山のレスキューとして国村を援けるために最高峰へ行こう」と自分は覚悟を決めた。
この信条の言葉「目立つ必要は一切ない」ように、このブナの木も誰にも知られず静かに佇んでいる。
そして「尽くして求めぬ山のレスキューでいよ」の通りに山を潤す水を抱いてブナは佇んでいる。
自分もこんなふうに大きな豊かな包容力で人の想いを受けとめるレスキューでありたい。
いつもそんな願いと祈りを想ってブナの梢を見あげ、山岳救助隊員の任務へ立っている。

この奥多摩の山で出会う、山を愛する人の生命を守る手助けをしていく。
この奥多摩の森に見つめていく、疲れ果てた終焉にここを選んだ人の想いを遺族へ繋いで渡す。
こうして今も幹ふれる掌を、この願いと祈りに血と汗と泥に染めて生きることを自分は選んだ。
この自分が生きる道は心から誇らしく幸せで、これが自分の立つべき場所だったと想える。

この生きる道を選ばせてくれた周太だから尚更に、このブナの包容力で自分は周太を愛したい。
この生きる道に山ヤとして最高の夢と誇りを教えてくれた国村、だからブナの大きさで自分も応えていきたい。
このブナのように最高のレスキューの誇りを懸けて、大切なふたりの隣で生きていきたい。
尽くし求めぬ願いにブナの梢を見あげて、きれいな笑顔で英二は大らかに笑った。

「周太、国村、大切だよ?」

見あげる雪の梢の向こうに青い空を見つめて英二は微笑んだ。
微笑んだ視線をゆっくり下げて映りこんだ切株に、小さな芽ぶきの気配がふくらかに見える。
雪を踏んで近づくと、小さな固い芽が新雪のなかに包みこまれたいた。
きっと春には美しい緑が現われる、その時はまた周太を連れて来られたらいい。
むかし周太が父親と奥多摩の山を歩いたように、自分がまた周太を山に遊ばせてやりたい。

いつも辛い任務に立っても笑顔だったという周太の父、彼のように自分も笑顔で立ち続けたい。
そして周太の幸せを彼の代わりに見つめて支えていきたい。
そんな温かな願いと祈りに英二は微笑んで、また巨樹の梢を見あげた。


青梅署診察室に英二が出向けたのは10時過ぎだった。
奥多摩駅へと歩いて戻る道の途中で吉村医師には朝の準備は手伝えない連絡をした。
いつも英二は吉村医師の朝のセッティングを手伝っている、その時間には今日は間に合えない。
警察医の業務も消防署や山岳会から依頼される救急法の講習も、すべて吉村医師は1人で対応していて多忙すぎる。
そんな多忙な吉村の手助けになりたくて英二はいつも手伝わせてもらう、そして合間に救急法と鑑識を教えてもらっていた。

青梅署の独身寮に戻ると急いで登山ウェアからワイシャツとスラックスに英二は着替えた。
すこし改まった雰囲気のチャコールグレーのVネックニットをそれに着て革靴を履く。
駐在所勤務日ではない日に吉村医師の手伝いをするとき英二はこの少し改まったスタイルが多い。
自主的な手伝いとは言え吉村医師の職場に助手として立つ以上は相応しい格好をするようにしていた。
着替たシャツの胸ポケットにペンとオレンジのど飴にUSBを入れて、救急法と鑑識のファイルを持つと英二は廊下に出た。

「お、宮田。いまから吉村先生のとこ?」

声かけられてふり向くと同期の藤岡が柔道着をぶら下げて人の好い顔で笑っていた。
有段者の藤岡は地域の柔道指導も担当する鳩ノ巣駐在に配属されている。
この様子はきっと、今日は非番だけれど稽古は出たのだろう。同期に会った気安さに英二は微笑んだ。

「今朝は本仁田山に登ったんだ、ついでに野陣尾根も登ってきてさ。だから遅くなったんだ」
「へえ、本仁田山か。雪の急登はキツいよな、良い訓練だろうけどさ。国村の『新雪だ』だろ、何時起き?」
「うん、4時半に起こしてくれたよ。朝陽の新雪の山波がさ、きれいだった。藤岡も行けたらいいのにな?」
「ありがとな、でも寒稽古あると無理なんだよね。こっちも朝早くからだしさ、俺はその要員で配属だしね」

話ながら途中まで一緒に歩くのが楽しい。
遠野教場から藤岡は一緒だけれど、こんなに話すようになったのは青梅署に一緒に卒業配置されてからだった。
警察学校の頃は同じ斑の関根たちといるか、周太とふたりでいることが多かった。
周太とは班も一緒で隣室だった、しかも遠野教官はよく周太と英二をパートナーに組ませた。
おかげで周太と堂々一緒にいられて嬉しかった、一緒が自然だったから教場の皆にも「似合う」と言われていたらしい。
この藤岡もそう言ってくれるから、国村と周太のことを知ったら驚くだろう。
けれど国村のことだから絶対に話すつもりは無い、そして藤岡が知ることも無いだろう。
こんなふうに秘密が出来ることも仕方ないな?すこしだけ寂しく想いながら英二は藤岡と歩いた。

「じゃ、またな。夕飯はここだろ?」
「うん、その予定だよ、国村もね。また夕飯にな、」

笑って藤岡と別れるとすこし急いで診察室へ向かった。
診察室の扉をノックして開けると吉村医師はデスクに向かっているところだった。

「朝の支度をお手伝いできなくて、申し訳ありませんでした、」
「いや、こっちこそ今日は済まないね、宮田くんは週休でお休みなのに」

声に体ごと振向いて吉村医師は笑いかけてくれる。
ファイルをサイドテーブルに置いて英二は袖を捲りながら微笑んだ。

「いいえ、俺からお願いして手伝わせて頂いているんです。勉強になりますから、」

話ながら洗面台へ向かうと英二は両手をきちんと洗って消毒をする。
きれいに拭って袖を戻すとファイルを手挟んで吉村医師に訊いた。

「先月のデータ整理でしたよね、弾道調査の、」
「はい、お願いできるでしょうか?データ集計と図案化をしてほしいのですが…」

今日の仕事の手順を聴くと英二は診察室のパソコンデスクに座った。
先月に周太と国村がテスト射手を務めた鑑識実験のデータ整理がまだ完了していない。
この1月下旬から2月上旬にかけて、五日市署や高尾署との合同訓練や遭難救助が重なって時間が取れないままだった。
それで英二が週休で吉村も往診が入っていない今日を利用して、終わらせようと昨日決めてあった。

標高別の2つの実験場・狙撃時間・狙撃部位ごとにデータをまとめていく。
それらを比較データに今度は組んで、狙撃条件による差を確認できるファイルを作り上げる。
パソコンを使ったデータ作成は法学部の在籍中に勉強にも利用していた。
こうしたエクセルでのデータ管理は大手の司法書士事務所でアルバイトした時に身に付けている。
そこで大規模な登記を行う際に使う、土地の権利関係他を明示するリーンペーパーの作成を英二は教わった。
あの表の作りが応用できる、そう考えて英二は吉村医師の手伝いを申し出た。
そう考えた通りにデータが明示できそうだ、英二は確認の為にエクセル化した段階で吉村医師に見てもらった。

「うん、わかりやすいですね。このデータを人体模型図との照合は出来ますか?」
「図形へのデータ表示ですね?ちょっとやってみます、」

エクセルによる数値データをまとめると、それを人体模型にあわせた図案化で明示していく。
これだと一目で狙撃条件と標的になった人体の損傷レベルが解りやすい、作成していくデータを英二は頭にも取り込んでいった。
この狙撃実験で明示できる「周太の」狙撃条件と標的損傷の因果関係を知りたい、そのために英二はこの仕事を申し出た。
この周太の狙撃データは、いつか立たされる辛い任務において周太を援けてくれるだろう。

すべてのデータを整理し作り上げると英二は、さり気なく胸ポケットのUSBを取り出した。
このパソコンデスクはちょうど吉村医師のデスクから死角になる、そっとパソコンにUSBを挿込むと英二はデータ保存した。
きっと吉村医師なら勉強になるからと快く英二にデータ保存させてくれるだろう。
けれどこのデータを使って英二は、周太が警察組織の暗部に立つときの「抜け道」を作ろうと考えている。
そのことは警察組織で生きるならリスクになる可能性がある、それに吉村医師を巻き込まない為には「知らない」が一番良い。
データ保存の事実を吉村医師が把握していなければ英二の独断になる、それなら英二1人が責任を負えば済む。

― 先生、無断で申し訳ありません。でも周太を守るため必要なんです、どうか許してください

悪意でやることではない、それでも心で英二は吉村医師に謝った。
そしてUSBの点滅を確認するとハードウェア取り外し操作を行って、そっとUSBをまた胸ポケットへと戻した。
これで全部の処理が終わる、英二は吉村医師に声を掛けた。

「先生、ご確認をお願いできますか?」
「はい、すぐ参ります、」

温かな笑顔がふり向いて、すぐ快く立って確認してくれた。
これで良いですと笑顔でOKをもらうと印刷し、ハードディスクにもデータを落としこんだ。
このデータには射手を個人特定できる情報は一切入っていない。
だから鑑識実験の部外者には誰が射手だったのかはデータを見ても判別はつかないだろう。

それでもこの正確な狙撃をふたりの人間が全く同様に行ったことは見れば解ってしまう。
この正確な狙撃データを取らせたテスト射手は誰なのか?
そう興味を持った人間が、もし数日後の警視庁けん銃射撃大会を観覧すれば目星は付くかもしれない。
このデータはどれくらいの範囲で利用されるだろう?確認しておきたくて英二は口を開いた。

「先生、このデータは警視庁全体でも使うのでしょうか?」

ディスクを収めるケースのラベルをテプラで作りながら英二は吉村医師に微笑んだ。
はい、と返事をして吉村医師は気さくに答えてくれた。

「青梅署内だけで使用する予定です。
他に警視庁内でこういったデータをよく使うなら警備部でしょう、でもあちらは独自のデータをお持ちのはずです。
それにね、きっと青梅署での実験データなどは他の部署は欲しがらないでしょうね?青梅署への評価を皆さんから伺っていると」

可笑しそうに笑って吉村医師は答えてくれる。
これは今度の射撃大会に国村がエントリーされた事情の「評価」の話だろう、ケースにラベルを貼りながら英二も笑った。

「都心の署長が青梅署長に言った『山と死人ばかり相手にして、警察官らしい能力は不要で楽ですね』のことですか?」
「そうです、だからね?きっと他の警察署も部門も、意地でもこのデータは借りに来ないでしょうね、」

青梅署、五日市署、高尾署。
この3つの警察署は警視庁管内の山岳地域を管轄とし、都心部の警察署とは任務が大きく異なる。
山岳地域特有の山岳救助隊を編成し、山村地域独特の地域交流と登山道巡視が任務にふくまれる。
とくに都心からアクセスしやすい奥多摩を管轄とする青梅署では遭難救助と自殺遺体の収容が多い。
そのことを「山と死人ばかり相手にして」と青梅署は揶揄されて一段下のように言われた。
この事情から数日後の警視庁けん銃射撃大会に青梅署は本腰を入れている、可笑しくて英二は笑いながら口を開いた。

「そうですね、意地でも借りませんね。そして青梅署もいま意地になっていますしね」
「今度の射撃大会ですね?絶対入賞して都心部の奴らを見返すんだ、って私も伺いました。そのために国村くんが出るんですよね?」
「はい。国村、拳銃は嫌いだけれど負けるのはもっと嫌いですからね?昨日も真面目に練習していましたよ、」

昨日は英二が非番で国村が日勤だった、このシフトの日が国村の射撃訓練の日になっている。
このあたりでは武蔵野署が最も整った射撃訓練場になる、それで練習には武蔵野署へと通っていた。
元々が本部特練選抜の件で拳銃嫌いになった国村だから、ただで練習は嫌がった。
それで国村は「1人は詰まらないだろ?」と英二を巻き込んだ、それで英二も武蔵野署へと通っている。
もう数日後に大会は迫っている、それが終われば武蔵野署通いも終わるだろう。
そして雪の高峰への登山訓練が本格的に始まる。

北岳、谷川岳、穂高岳。そして剣岳。
剣岳を管轄する富山県警には英二にヒントをくれた一節を書いた人がいる。
そのひとに話をいつか聴けたらいいな?そんなことを考えながらハードディスクをデータ用の抽斗にしまった。
ひと段落ついてコーヒーを淹れて座ると吉村医師が微笑んだ。

「もうすぐですね、北岳、」
「はい、楽しみです。先生も登られたんですよね、」
「もうずいぶん昔ですけどね。富士山がよく見えますよ。最近は冬期になるとゲート規制があるみたいですね?」

他愛ない会話と芳ばしい湯気で寛ぐのが楽しい。
おだやかな吉村医師との時間は実家に帰れない英二にとって癒される大切な時間だった。
のんびりコーヒーを飲み終えて13時になると「休憩」の札を扉に下げ、ふたりで遅い昼食に外へ出た。
よくいく味噌汁とご飯がお替り自由の定食屋で暖簾をくぐると、いつも座る席に着いて注文をする。
すぐに運んでくれた温かな食事をとりながら英二と吉村は、今朝の本仁田山の話で楽しんだ。

「先生、国村はね?雅樹さんのこと大好きだって話していましたよ。子供の頃に一緒に登った話をしてくれて」
「懐かしいですね、ふたりで登ったときでしょう?あのとき雅樹が驚いていました、国村くんの登るペースは速いってね」

可笑しそうに笑いながら吉村は箸を運んでいる。
なんだか愉しいエピソードがあるのかな?目で訊きながら英二が蕪漬を口に入れていると吉村が教えてくれた。

「ヨコスズ尾根の辺りはニホンザルが住んでいるでしょう?
どうもそこから来たらしいサルがね、ふたりが歩く前を登っていたらしいんです。
それで国村くん『サルには負けない』って笑うとね、走って登って行っちゃったんですよ。それはすごい速さで」

まだ6,7歳だった国村の負けん気が強い笑顔を英二は想像した。
きっと今回の射撃大会によせる青梅署の事情を知ったときの「絶対に負けないね」という顔だったろう。
あいつ子供の頃から本当に変わっていないんだな?可笑しくて英二は笑った。

「まさに『猿のごとく速く』登って行ったわけですね?」

「はい、ほんとに国村くん、サルを追い抜いてしまって。
そして山頂下の雑木林の前で雅樹を待っていたそうです『あいつここへ逃げ込んじゃった、試合放棄だね』って笑いながら。
急いで国村くんを追いかけた雅樹はすこし息切れしていました、でも国村くんはね、全く息が乱れていなかったそうです」

いま吉村医師は雅樹の「山」の思い出を普通に話せるようになっている。
今朝も国村が言ってくれた通り吉村医師の「時」は動いて古傷は癒え始めている、決して忘れることは出来なくても。
おだやかに愉しげに息子と山の話を楽しんでくれる様子が英二はうれしかった。

食事から戻ると今度のインフルエンザ予防接種用のカルテを整理した。
留置人と警察署の勤務者が対象になる予防接種だった、その準備を整えながら吉村医師が教えてくれた。

「留置人はね、マスクが出来ないでしょう?だから感染者が出るともう爆発的です」
「その感染防止の対策ってことですね、」
「はい、その通りです。でも型が色々あるでしょう?
だから予防接種してもね、難しいんです、マスクできるのが一番良い予防なんですが、そうもいかないですしね」

警察医ならではの感染防止対策への悩みを穏やかに微笑んで話してくれる。
本当に現場に立たないと解らない、勉強になるなと楽しく聴いていると電話が鳴った。
ちょっとすみません、と笑って吉村医師は受話器を取ると微笑んだ。

「岩崎さん、こんにちは。はい、今日も宮田くんお借りしています…はい、…ええ、…」

御岳駐在所長の岩崎からの電話らしい。
手際よくカルテを整理しながら吉村医師の様子を見ると、表情が翳っていく。

「はい…ええ、時刻は?…わかりました、」

この雰囲気は、たぶんそうだろう。
カルテを素早く片付け終えると英二は診察室のロッカーを開いた。

中には大きい白衣が吊るされている、この白衣は現場や検案所での助手を務める時用にと吉村医師が用意してくれた。
ハンガーから外した白衣を手早く羽織って登山靴に履き替えると、今度は吉村医師の外出用の医療バッグを出しておく。
それから感染防止用グローブを数枚パッキングして白衣のポケットに入れた。
支度が終わったとき調度、吉村も受話器を置いた。ほっとため息を吐くと英二を見ながら頷いて教えてくれた。

「御岳駐在所の管轄で、自殺遺体の発見です、」

予想通りの痛ましい答えに英二は軽く瞑目した。
自分がいつも巡回する場所のどこかで、ひとつの生命と想いが消えた。
今朝もブナの木を見あげて確かめた自分の道に英二は、ひとつ呼吸をして微笑んだ。

「はい、お手伝いさせてください」
「助かります、よろしくお願いしますね」

診察室の扉に「外出」の札を下げた。
急ぎ足で青梅署ロビーへと向かいながら吉村医師は説明を始めた。

「場所は御岳渓谷、御岳小橋です」
「投身自殺ですか?」
「はい、顔面損傷がひどいとの事でした。背格好から…20代男性、遺書らしきものを持っているそうです」

軽いため息をこぼすと吉村医師は哀しげに微笑んだ。
その気持ちが痛いほど英二には解る、吉村医師は雅樹が亡くなった同じ年頃の若者の自死を悼んでいる。
そんな吉村医師の想いが哀しい、そして自分と同世代の男の死への想いを受けとめてやりたい。
ちいさく微笑んで英二は吉村医師に言った。

「俺と同世代ですね、その方。だったら先生、その方の想いを俺は受けとめてあげやすいかもしれませんね?」

誠実な眼差しが英二を見、微笑んだ。
哀しい今の時、それでも吉村医師はうれしそうに微笑んで言ってくれた。

「はい、君ならね、きっと出来ます。頼りにしていますよ?」
「がんばります、」

自死の見分は、どんな遺体であっても哀しい。
それでもこの青梅署で警察官として警察医として生きるなら向き合わざるを得ない。
だったら真正面から向き合って、受けとめていくしかない。
それは厳しい、けれど死者であっても自死であっても、人の想いを繋いでいく温もりも見つけられる。
あのブナの木を想いながら英二は、刑事課の澤野たちと一緒にパトカーに乗り込んだ。



御岳小橋に着くと遺体には毛布が掛けられていた。
今朝の雪に白い渓谷の現場にブルーシートが張られ、見分の支度が整えられていく。
白衣を着た英二を見つけて御岳駐在所長の岩崎が駆け寄ってきてくれた。

「宮田、」

死体見分のために感染防止グローブをはめかけて英二は声にふり向いた。
ふり向いた先の岩崎の顔がいつになく困惑している、どうしたのかなと英二は微笑んだ。

「岩崎さん、おつかれさまです。発見者は岩崎さんですか?」
「いや、俺じゃないんだ。悪いが、ちょっと来てくれ、」
「あ、はい。ちょっと吉村先生に声かけてきます、」

いつも頼もしい背中で朗らかな岩崎らしくない、どこか慌てたような表情が怪訝だ。
いったい岩崎は、どうしたのだろう?
不思議に思いながらグローブをいったん外すと吉村医師に声を掛けた。

「吉村先生、すみません。岩崎さんに呼ばれたのですが、すこし外させて頂けるでしょうか?」
「岩崎さん、うん?」

言われてすぐ何かに気付いた顔で吉村医師は頷いた。
けれど少し怪訝そうに首傾げると低い声で英二に教えてくれた。

「宮田くん、おそらくね、国村くんのことです」
「国村のこと?」

国村がどうしたのだろう?
すこし首傾げた英二に吉村医師も首傾げたまま話してくれた。

「はい。今回の発見者は国村くんなのです。けれど青梅署への連絡は岩崎さんからでした。それで、おかしいと私も思って」
「国村が?でも、今ここに姿が見えないですね?」

吉村医師が言う通り、国村が自分で連絡しないのは異常だった。
普通は発見した警察官本人が全ての連絡をとるだろう、4年目で馴れている国村なら尚更だった。
しかも現場に国村は居ない、発見した警察官が遺体の行政見分を行うのが普通だから国村の不在はおかしい。

「ええ、それで私も変だと思っていました。
今回のご遺体は損傷が激しいと聴いています、ですが国村くんなら動じないはずです。自分の任務を放り出すなどは、」

心配な面持ちで吉村医師は英二を見つめた。
とにかく岩崎に着いて行って訊いてみよう、軽く頷くと英二は微笑んだ。

「わかりました、とにかく岩崎さんについて行って訊いてみます」
「よろしくお願いします。こちらは進めておきますから、時間など気にせずに行ってきてください」

吉村医師の言葉に頷くと英二は踵を返した。
近くで待っていた岩崎の許へ行くと笑いかけながら英二は促した。

「お待たせいたしました、行きましょう」
「うん、すまないな、今日は吉村先生の手伝いなのに」

雪の河原を歩き出すと岩崎はすこし周りを見回した。
そして声を低くめ英二に教えてくれた。

「国村の様子がおかしい、全く口をきかないんだ」

訴えるような困惑が英二を見つめている。
吉村の言う通り何か異常なことが起きている、穏やかに英二は訊いてみた。

「いつから、話さなくなったのですか?」
「うん、国村がな、今回の遺体の発見者だったんだが、その報告から変だったんだ」

河原から見えるミニパトカーへ向かって歩いていく。
歩きながら岩崎は続けてくれた。

「今日は登山計画書が多くてな、昼休憩がすこし遅くなったんだ。
それでな、いつもより遅い時間になってから、自主トレーニングに国村はここへ来たんだよ。
そして遺体を発見した、御岳駐在には無線を使って報告してきたんだ。けれど途中から上の空になった、変だと思ったよ。
それで俺が署に報告を入れてみたらな?あいつ、署には連絡していなかったんだ。無線にも出ない、俺は急いでここに来た、」

立ち止まると岩崎は御岳小橋の下方、遺体の発見現場を指さした。
指さしながら英二を振向いて縋るように見つめた。

「あいつな、遺体の傍に座りこんでいたんだ。ぼんやりと遺体を見つめてな、手には便箋を握りしめていた。
俺が声を掛けても返事しないんだ、それで肩を貸して立たせてミニパトカーへと連れて行ったんだ。
あいつの掌を開いて便箋を取り上げてみたらな、遺体が握っていた遺書のようだった。それを読みながら報告していたらしい」

「では、国村は遺書を読んでいるうちに様子が変になった。そういうことですか?」
「うん、そういうことになる」

話し終わると丁度ミニパトカーの近くに着いた。
ミニパトカーの鍵を英二に渡し岩崎は頼んでくれた。

「後部座席に座らせてある、宮田になら何か話すかもしれん。頼んでもいいか?」

そっとミニパトカーの窓を見ると白い顔が活動服姿でぼんやり座っている。
見たことのない国村の生気の抜けた顔に心が痛んでしまう、静かに頷いて英二は微笑んだ。

「はい、国村は俺のアンザイレンパートナーです。あいつのサポートは俺がする約束なんです。
自信も確約も出来ませんが、やらせてください。それですみません、吉村先生にすぐ戻れないと、お伝え頂けますか?」

おだやかに応えた英二に岩崎はすこし安心した顔をしてくれた。
ほっと息吐いて小さく笑うと「頼んだよ」と軽く英二の肩を叩いて岩崎は現場へ戻っていった。
いつもより不安げでも頼もしい背中を見送ると、英二は静かにミニパトカーのロックを開錠した。

かたん、開錠音がしても国村の横顔は動かない。
静かに後部座席の扉を開けると英二は国村の横へと乗り込んだ。
その気配にかすかに色白の横顔が動いた、そっと英二は国村の瞳を覗きこんで笑いかけた。

「国村、」

ゆっくり細い目の焦点が合って瞳が英二を真直ぐ見つめた。
すうっと目が大きくなると、あわい青みを帯びた唇が動いてくれた。

「…みやた?」

すこし掠れたような声、それでも名前を呼んで見つめてくれた。
うれしいなと穏やかに微笑んで英二は頷いた。

「うん、俺だよ?国村。おまえのアンザイレンパートナーだよ、」

きれいに大らかに笑って英二は答えた。
すこし大きくなっている国村の瞳から、すっ、と涙がひとすじ零れ落ちた。

「…っ、みやた…っ」

名前呼んでくれる唇がすこし赤みを取り戻していく。
穏やかに頷いて英二は長い指で隣の白い額を小突いた。

「うん。俺だよ、宮田だよ?国村、おまえのことが大好きな、友達で同僚で、アンザイレンパートナーだ」

俯き加減の白い顔を覗きこんで英二は、きれいな笑顔を朗らかに咲かせた。
覗きこんだ真っ黒な瞳から涙がうまれてくる、英二の顔を見つめたまま白い手が英二の頬にふれた。

「宮田!…」

頬ふれる指先が冷え切っている、心の緊張状態で体も冷えたのだろう。
自分の頬に置かれた白い掌に英二は自分の掌を重ねて微笑んだ。

「うん、なんだ、国村?」

どうしたんだよ?目でも訊きながら英二は笑った。
笑って見つめる先で黒い瞳に生まれた涙がこぼれて、言葉も一緒にこぼれはじめた。

「宮田…!無事なんだよな、みやた…っ」

縋るような必死な口調。
初めて聞くトーンのテノールの声が、国村の呆然自失を生んだ原因を告げている。
たぶんそうだろうな、想いながら英二は安心させるよう微笑みかけた。

「うん、無事だよ?ほら、ちゃんとお前の隣で座っているだろ?」
「みやた、…無事だね、生きてるよね?…美人のまんま生きているよな?宮田…!」
「ああ、俺はちゃんと生きてるよ?そう簡単には俺はね、死なないよ」

笑って英二は国村の肩に長い指の大きな掌を置いた。
大丈夫だよ?と目で言いながら温かく英二は笑った。

「約束しただろ?俺はね、おまえも周太も守るんだ。だからさ、しぶとい俺は死ねないよ?約束は絶対に守りたいからね」

告げて英二は国村の背中を軽く、ポンと叩いて笑った。
叩かれたまま国村は英二にしがみついて、そして透明なテノールの声が泣いた。

「宮田…!俺、おまえだと思ったんだ…!あの橋の下で発見した、同じ色のウェアで背が高い…そして、遺書が!」

白い手が英二の肩を掴んで背中を掴んで、ふるえている。
純粋無垢な黒い瞳が真直ぐに英二の目を見つめて泣いている。
透明なテノールの声がいま、堪えていた想いをひと息にあふれさせ始めた。

「恋人が友達のところへ行った、そんな遺書だった…っ、
顔は転落の打撃で解らなくなって…でも色が白い、背が高い、赤いウェアで…朝、本仁田山で話した、雲取の麓でも、でも…」

涙が雪白い頬を伝っていく。
滂沱と流れ落ちる涙の秀麗な顔は見たことがない必死の表情で英二を見つめている。
そして透明なテノールの声が悲鳴を吐き出すように言った。

「俺は、っ…俺のせいでお前が死んだんだと思ったんだ!」

着ている登山ウェアは深紅で英二のウェアと似ていた。
顔は損傷が激しくて解らない、けれど色白で背が高くて英二と背格好が似ていた。
恋人が友達と結ばれて居場所を失い自死を選んだと告げる遺書を握りしめた、英二と年恰好が同じ男。
だから国村は英二だと思いこんだ自責のままに呆然としてしまった、そして言葉も失って座りこんでいた。
そんなふうに自分を責める必要なんかないのに?きれいに笑って英二は国村を見つめ、背中をポンと叩いてやった。

「おまえの所為なんかで俺は死なないよ?俺はおまえと最高峰へ登るよ。その約束は絶対に守りたい、その為にも俺は生きている」

またポンと背中を軽くたたいて落着かせる。
泣いている黒い透明な瞳に微笑んで英二は続けた。

「おまえの専属レスキューとしてさ。
アンザイレンパートナーとして俺は生きている、生かされているんだよ?
山ヤの最高の誇りも最高の夢もさ、おまえが俺に与えてくれたんだ。だから俺はね、おまえの所為で生きているよ」

これが自分の率直な気持ち。
その想いを真直ぐに国村の目を見つめながら英二は微笑んだ。
見つめた想いの前に細い目は沈思を湛えて英二を見つめていた。

「俺のせいで、宮田は生きている?」
「そうだよ?言っただろ、俺がここに居る理由はね、国村と周太、ふたりを守りたいからだ。ふたりが大切なんだ」

はあっと大きく国村は呼吸をした。
ゆっくり瞑目して瞠らいて、そして睫毛をあげると底抜けに明るい目が笑った。

「うん…約束だよ、宮田?ずっと俺を守れよ、アンザイレンパートナーでいろよ?おまえはね、俺が守るからさ」

いつもの明るい透明なテノールの声が笑っている。
もう大丈夫だろう、きれいに大らかに笑って英二も応えた。

「おう、頼んだよ?あ、今日の晩飯はさ、鶏大根らしいよ?あと揚げナスだってさ。好きなもんで良かったな?」
「お、楽しみだね。うん、また北岳の話とかしながら食いたいね、藤岡も一緒だよな?」

他愛ない話をしながら英二は国村とミニパトカーを降りた。
降りてロックを掛けて鍵をしまうと、ポケットからハンカチを出して国村に渡してやった。

「ああ、一緒だよ。ほら顔、拭いとけよ?おまえこそね、きれいな顔が涙だらけだよ、」
「ありがとな、でもまあ、珍しいもん見れてよかっただろ?」

きちんと顔を拭きながら、笑って国村は一緒に河原を歩いてくれる。
これなら国村はもう大丈夫だろうな。ほっと心に安どのため息を吐きながら英二はきれいに微笑んだ。
ならんで雪の河原を歩いていきながら、ふっと国村が英二の白衣の腕を掴んで英二は振り向いた。
どうした?目で訊いてみると真直ぐな純粋無垢な目が英二を見つめて、国村は口を開いた。

「宮田、俺はね?ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。
おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺。なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ」

英二は足を止めた、そして自分の腕を掴んでくれる想いを見つめて微笑んだ。
見つめた先で底抜けに明るい目が率直に英二を見て、透るテノールの声が告げてくれた。

「おまえを失って絶望したんだ、俺は。
それでもね…あのひとを愛することは後悔できない。でもね、きっと、あのひとも哀しむだろうって想った。
その哀しみを想うとさ、ほんと苦しいよ?だから宮田、これは我儘だけどさ。あのひとと俺の為に、死なないでくれ」

ふたりのひとから生きていてと願ってもらえる「わがまま」は温かい。
そういう我儘はうれしいな?素直に笑って英二は国村に頷いた。

「おう、死なないよ?俺はね、しぶといからさ。約束だ、」

きれいに大らかに英二は笑った。

クライマーウォッチが21時を指して、英二は携帯電話を開いた。
発信履歴から電話を架けてベッドに座りこんで壁に凭れる。
すぐに繋がって、大好きな声が気恥ずかしげに訊いてくれた。

「はい、…英二?」
「うん、俺だよ、周太。いま、ちょっと待っててくれた?」
「ん、待ってた…英二の声、聴きたかったんだ」

相変わらず遠慮がちで、どこか可愛いトーンの周太の声。
周太と国村の想いを知ってからも英二は、変わらず21時には電話する。
ふたりの想いを知ったからと電話の習慣を変えるのはどうなのだろう?そう想って率直に英二は周太に訊いた。
その問いに周太は変わらず電話してほしいと言ってくれた、それでずっと電話もメールも変わらず繋いでいる。
いつもどおりが変わらないこと、わがままで甘えてくれることは嬉しい。英二は微笑んだ。

「いくらでも聴かせてあげるよ。ね、周太?話したいことあるんだろ」
「ん…今日ね、当番明けすぐに実家に帰ったんだ…それで、母と話してきて」

今日の周太は非番で特練も無いと昨夜、言っていた。
当番勤務も滞りなく定時に上がれて、それで川崎の家へと帰れたのだろう。
きっとこの話だろうな?穏やかに微笑んで英二は訊いてみた。

「国村のこと、話せたんだ?」
「ん…英二、聴いてくれる?」

すこし遠慮がちだけれど「どうか聴いて?」とねだってくれるトーン。
こんなふうに話そうとしてくれるのは嬉しい、笑って英二は答えた。

「うん。聴かせてよ、周太?お母さんなんて言ってくれた?」
「ん。母は覚えてた…俺、小学校3年生の雪の朝にね、父とふたりで奥多摩へ行ったんだ。
そのとき国村と出逢って、俺…大好きになったんだ。両親以外のひとを初めて、好きになって。
俺、その日の夜に母に話していたんだ、大好きなひとが出来たって…それを母は覚えていてくれて、記憶が戻ったのね、て」

想った通り、国村と周太は小さい頃に出逢っていた。
今朝、国村が話してくれた『オペラ座の怪人』に仮託した、初恋の再会の物語。
それを周太も話そうとしてくれている、やさしく相槌しながら英二は温もりを心に見つめて聴いていた。

「国村との再会を母は喜んでくれて。そしてね…受けとめてくれる英二をね、もっと好きになったって笑ってくれて」
「うん、うれしいな。お母さんに言われるとさ」
「ん…それでね?なるべく早く帰って来てって、英二に母から伝言…それでね、国村も連れてきて、って…」
「うん。俺と国村はね、シフトが交代制だから一緒に休みは取れないけれどさ、国村だけでもいいよね?」
「いいの?…ん、わかった、訊いてみる…ね、英二?」

遠慮がちに気恥ずかしげなトーンで、なんだか可愛い声が訊いてくれる。
なんだろうな?思いながら英二は相槌を打った。

「うん?なに、周太、」
「ん…ありがとう…それでね、英二、」

ふっと息を1つ、電話の向こうで飲みこんだ。
そして落着いてやわらかな声が英二に告げてくれた。

「大好き、英二…受けとめてくれて嬉しい、幸せ…俺ね、国村を大好き。でも…わがままだけど、でも、英二を愛している」

こういうのは幸せだな?
きれいに笑って英二は自分も「わがまま」を告げた。

「うん、俺も周太を愛してる、そして国村が大好きだ。だから周太?帰ったらさ、また飯、作ってくれな?」

うれしそうな笑顔の気配が電話の向こうで1つ咲いてくれる。
その笑顔から、すこし弾んだ声が幸せそうに言ってくれた。

「ん。作る、だから帰ってきて、ね、英二?」

帰りを待ってくれる場所。
温かな台所の湯気と陽だまり、そこで自分のため食事の支度へと動かしてくれる掌。
ありふれた、ささやかな幸せの風景、けれどそれは自分にとって宝物の風景。

その風景にもうひとり大切な存在が座るだろう。
今日も必死で泣きながら、大好きで大切だと告げてくれたアンザイレンパートナー。
さっき寮の食堂に座る夕食の席で、愉しそうに笑って山の話をしてくれた。
こんどはあの温かで清々しい家で一緒に話してくれたらいい。

「うん、必ず帰るよ、周太。大会終わって、北岳の後かな?」
「じゃあ、俺が奥多摩に行く方が先かな…美代さんとね、約束があって…」
「そうだね、それが先かな?」
「ん。あのね、美代さんから電話があって…」

愛する声が想い出させてくれる、ふりつもる年月と記憶が温かい家。
やさしく端正な愛する守っていきたい「家」、帰りを待ってくれる場所。
そこで生まれる穏やかな時間を想いながら、愛するひとの話に微笑んでいた。
いつものように首から提げた合鍵に指先でふれながら聴く、その合間に英二はひとつの詩を想い出した。

Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の真心への感謝 やさしい温もり、歓び、そして畏怖への感謝
慎ましく開く花すらも、涙より深く私の心響かせる


【引用詩文:『ワーズワス詩集』】

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