萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

皐月三十日、苧環―resolved

2018-05-30 23:47:20 | 創作短篇:日花物語
嵐を拓く、
5月30日の誕生花オダマキ


皐月三十日、苧環―resolved

眠れるまま掴めるのなら、後悔なんて愚かだ。

「これは厳しいなあ…、」

タメ息こぼれる暁闇、田園うす明かり泥に浸かる。
紫紺色ふかい雲たち稜線ゆく、吹きはらう風ふれる額に涼しい、けれど苦く渋く泥が臭う。

「一晩…で、か、」

一夜、たった一眠り。
それだけのこと、それだけの時間、それだけ水は天から覆った。
そして水鏡はるか墨色しんと朱色に明ける。まだ植えたばかりの早苗たち消えて、沈んだ緑ひとつ手を伸ばした。

―まだ生きてる、な?

指ふれる茎は細い、けれど強靭しなやかに肌はじく。
まだ命絶えてはいない、そんな泥田に長靴ふみこんだ。

「おっ、」

ずるり、足もと崩れて沈みこむ。
ぐらり姿勢ゆらぐ、それでも背筋ぐっと緊張たてなおす。

「…よし、」

一言気合、にやり笑って見晴るかす田園に光さす。
朝陽まばゆい黄金に雲がゆく、光雲きららかに水面ゆらす。
昇りゆく光満ちて今日が水田に移ろう、そんな自分の場所に溺れた苗をすくった。

「うん、」

うん、生きている稲は。

「ひろい…けど、なあ?」

瞳をあげた視界、田園はるかに広すぎる。
この全て植えなおすなんて苦しい、だって時間を無駄にされた。

―でもやらなかったら始まらない…飢え死にだ、よな?

この田植え時間どれほどかかる?

そんなこと考えれば気も遠い、でも可能性はゼロじゃない。
だから自分もこうして今ここに立ち、生きている。

『…ご先祖ずーっと大事にしてきたから、なあ?』

ほら、記憶の声つぶやく。
日焼け逞しい深い瞳の横顔、静かで、けれど強い視線。
この墨色と朱色そめる水田たたずんだ壮年、その傍ら幼い自分はいた。

「父さん、ジイさん、負けねえぞ?」

ひとり笑って指伸ばして、さぶり爪から冷感まとわる。
水面ゆらいで早緑つかむ、細やかな根さぐって泥へ挿して腰骨きしむ。

「っつ、」

痛み唇こぼれる、姿勢ちょっと悪いのだろう?

『ほれっ足、シャキっと踏ん張らねえから不格好なんだよう。若えんだシャキっとせんかい、』

ほら懐かしい声が笑う、麦わら帽子から日焼け無精髭。
あの笑顔この夜明け遥かな上から見下ろすだろうか、遥かな近い遠い笑顔たちも共に。

「…痛かねえ、」

痛み微笑んで指また伸ばす、水さぶり浸して早緑つかむ。
水の輪ゆれて朱色きらめく、朱い波そっと根を埋めて膝ゆるく軋む。
こんなこと故郷この地はよくあること、それでも田の道むこう家たち連なる。

「よし、」

長靴一歩ちいさく踏みだす、漣きらめく朱色に緑ひとつ掬う。
まだ植えなおせば見られる秋、あの黄金きらめく稲穂の波を呼ぶ。
そんな予兆まばゆい朝陽の水田ほとり、夜明ける青紫色が花に咲く。
撮影地:神奈川県某所、苧環@長野県和田宿


苧環:オダマキ、花言葉「愚か」紫苧環「勝利への決意」

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