最後に、ちょっとだけ捻ってみました。
日本一有名な剣豪・宮本武蔵ですが、実際には相当クセのある人物だったそうです。
本人はおそらく、剣術使いというよりも、兵法家としての名声を欲していたんじゃないでしょうか?
吉岡一門との決闘に際しては、勝つために手段を選ばない非情さを見せていましたが、これは武蔵の、剣士としての心構えの一端を示したもの、と、友好的に解釈する向きもありますが、実際にはどうでしょうか?
当時は、関ヶ原で徳川方が勝利し、世の中から戦が無くなろうとしていました。
武蔵自身、関ヶ原に参加していたことからも、剣術の腕で士官の道を探していたのは明らかです。
だとすると、関ヶ原以後の武蔵は相当焦っていたはずです。
何と言っても、家康によって多くの大名が改易・減封され、世の中には食い詰め浪人が跋扈していましたから。
現代でいうところの、就職氷河期が始まっていたのです。
武蔵の、決闘に明け暮れた人生というのも、結局、当時の世相がそうさせた、と、言えなくもないと思うんです。
と、なればですよ。
やっぱり、剣客として身を立てるよりも、兵法家としての士官の道を探す方が、よっぽど現実的だと武蔵は思ったんじゃないでしょうか?
だって、剣客としての名声を高めるための決闘なんか繰り返してたら、命なんか、いくらあったって足りないですよ。
まず、剣客というのは、決闘に際しては正々堂々と立ち会わなくてはいけません。
間違っても、夜道に後ろから「グサリ」とかは駄目です。
もし、そんな事をすれば、武蔵の剣客としての名声は地に落ち、士官への道は永久に閉ざされてしまうでしょう。
しかし、これが兵法家となれば別です。
兵法家であれば、事前に策を弄するのは当然なんです。
たとえ闇討ちであっても、兵法家の行うそれは「奇襲」と云う事になります。
こうしたことを踏まえれば、常に体調管理に気を配り、立ち会いのための根回しに(当時は、有名道場の先生と立ち会うためには、然るべき紹介状が必要であり、それを得るためには莫大な金子が必要だったそうです)、大金と神経を浪費してしまう剣客としての立身を望む人生より、口八丁でも多少は前途が開ける兵法家としてのそれを望んだのだとしても、それほど不思議じゃないと思うんです。
で、あれば、武蔵の非情な戦法についても、世間の評判を落とすことなく、堂々と行える訳です。
なんとなれば、武蔵は兵法を以て決闘に望んだんですから。
そういう意味においては、宮本武蔵ほど太平の世に適応した剣客はいないのかもしれませんね。