gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ロードス島戦記 邪神降臨

2009-05-20 16:13:31 | DC

Photo

 これまで何度もゲーム化されてきたロードス島戦記ですが、ドリームキャストで発売された、この邪神降臨が最もゲームとしての完成度が高かったように思います。

 それもそのはず、このゲームは、なんと、あの傑作アクションRPGディアブロにそっくりなんです。

 基本のゲームシステムなんかは、ほぼディアブロのままです。

 そのため、本作のロードスとしての特徴が活かされない序盤に関しては、随所に醸し出されるディアブロ風味が、プレーヤーをゲームに没頭させます。

 主人公は赤髪の傭兵(皇帝?)ベルド。

 この人選は良かった!

 ディアブロの野蛮さを表現するのに、パーン辺りを主人公に据えても、あの荒々しさは表現できなかったんではないでしょうか?(筋骨隆々のベルドは、ディアブロにおけるバーバリアンに相当します)

 棍棒・メイス等の打撃系武器は、ベルドのような男が振り回してこそ、様になるってモンですよ(特に序盤の墓地でのゾンビ戦ではそう感じます)。

 ストーリーは、原作の6・7巻で描かれた邪神戦争を軸にしているらしいのですが、そうなると英雄戦争(原作の第一巻)で死んだはずのベルドが主人公では筋が合わなくなります。

 しかも、英雄戦争時にすでに老人だったはずのベルドが、ゲーム内では魔神戦争(ロードス島戦記第一巻よりも数十年前の物語)の時のような若々しい姿をしているのは何故か?

 ベルドの帯剣ソウルクラッシャーは老いを抑制する魔力を秘めていたんだっけ?

 しかし、ゲーム開始時には、ほぼ丸裸のベルド。

 彼がその魔剣を所持していたという記憶は、私には無い。

 となると、主人公はベルドではなかった?別人?

 あるいは、物語の舞台が邪神戦争時ではなく、魔神戦争時だったのか?

 いや、ゲームにはパーンやディードリットも登場していたので、魔神戦争時代であるはずがない(当時、ディードリットはともかく、パーンはまだ生まれてもない)。

 まさか「恐るべき子供たち計画」か何かで生み出された双子の片割れ??

 ???

 どうも、混乱してしまったようで、状況を整理して考えるのは難しいようです。

 なので、こう考える事にします。

 ゲームの中の世界は、ロードス島戦記のパラレルワールド。

 時空を超え、ロードスの魅力をぎっしりと詰め込んだ特製幕の内弁当。

 こう考えるなら、別段、物語の整合性に頓着する必要も無し。ですね。


シェンムー

2009-05-13 16:29:44 | DC

Photo

 TVゲーム最初期から私たちを楽しませてきた変幻自在のバカ要素ですが、時を経て、私たちはその究極型を目にすることになります。

 ドリームキャストで発売された「シェンムー」というソフトです。

 それまで発売されたゲームの中で、きわめて重大なテーマをユーザーに、そして社会に投げ掛けたユニークタイトル。

 シェンムーが目指したものは、どこまでも現実世界に近い仮想空間を作り上げることでした。

 おそらくシェンムーの開発者たちは、その制作過程において、本来の開発理念を超えた、常軌を逸した情念に取り憑かれたのではないでしょうか?

 そう思わせる迫力が、シェンムーから漂ってくるのです。

 現在、仮想空間にリアリティを持たせるために、最も有効な手段として物理計算エンジンなるものがあります。

 素人である私がこれを説明しますと、つまり、あらかじめプログラムされている物理法則に則ったリアクションが起きるというものです。

 ニュートンの万有引力の法則よろしく、ある物体が落下した場合、空気抵抗や落下距離、速度、重力等々の諸条件が落下にどう影響を及ぼすかをあらかじめ設定しておいたものです。

 こうした新技術を積み重ねていけば、いずれはより現実世界に近い仮想空間を作ることも出来るのでしょう。

 しかし、シェンムーではそうしたアプローチは取られず、ゲーム中に登場する無数のキャラクターの行動によってリアリティを演出しました。

 プレーヤーの視界に映るキャラクター以外の、あらゆるキャラクターがそれぞれの目的に沿って(あらかじめプログラムされている目的ではありますが)常に行動しているのです。

 例えば、夜、道で千鳥足のオヤジを見かけるとします。

 「何だ、酔っぱらいかよ。 仕事帰りに一杯引っかけてきたのか?」とか何とか思いつつ、そのまま酔っぱらいの後を付けていくと、彼がきちんと家路を辿るのを目撃できるはずです。

 こうして、無数の登場キャラクターの一人一人に行動スケジュールが設定されており、なおかつ、会話も出来てしまうのです(もちろんフルボイスです)。

 際限の無いリアリズムの追求は、ゲーム性までも犠牲にし、それによって大衆の評価を得られなかった要因ともなりました。

 また、ふくらみすぎた構想を結実させる目処も立てられず、結果として非常にスケールの小さなゲームとなってしまったことも、多くのプレーヤーを失望させました。

 しかし、我々は、シェンムーのようなゲームを評価する場合、その比較対象を過去のゲームに求めてはいけないのではないでしょうか?

 古今に類をみない、無謀とも言えるゲーム開発に挑戦した彼らが示した、新たなゲーム性の開拓にこそ、評価の目を向けるべきではなかったか?

 私のような、昭和を引きずった世代にとっては、シェンムーの世界に漂う、淡い昭和のノスタルジーは、たまらなく心を引きつけます。

 「クレヨンしんちゃん モーレツ大人帝国」や「ALWAYS 三丁目の夕日」で郷愁を誘われた人たちなら、同じくシェンムーの世界に没頭できるはずです。

 シェンムーの評価の低さは、開発に問題があったのではなく、販売にこそ重大な過失があったと断ぜざるを得ません。

 シェンムーが示した新たな時代への光明は、そのわずかなきらめきの光跡を残して消えてしまいました。

 この時点で、日本の取るべき道が定まったと云っても間違いではないでしょう。

 日本は、ゲーム業界における世界のパイオニアであることを捨てたのです。

 これ以後、シェンムーの残した遺伝子は、欧米産ゲームに受け継がれることになります。

 私たちは、シェンムーの名残を洋ゲーの中に見いだして、わずかな慰めとする他はないのです。