戦略と戦術。
この二つの言葉には明確な違いがあるそうです。
戦術というのは、一つの戦闘をどうやって勝つのか、その算段のことを言うそうです。
それでは、戦略は?と、いうと。
その戦闘の一つ一つに意味を持たせることなのだそうです。
どういうこと??
まったく、その筋の専門用語って難しいですよね。
え~っと、例えば、激戦を経て一つの都市を占領したとします。
まぁ、普通に考えれば、これは戦闘に勝利したことになります。
なんてったって、敵の都市をまるまる手に入れたんですから大勝利ですよ!
占領した側は、都市の治安維持のためと、それから都市を奪い返そうとする敵の攻撃に備えて、必要な兵員と物資を占領都市の防衛に割かなくてはいけません。
また、市民生活の安全を保証するため、不満分子を取り締まり、暴動に備え、スパイに目を光らせ、それから、味方の兵士の規律にも厳しくしないといけません。
占領軍というのは兵卒に限らず、強盗だのなんだの、とにかく敵国の市民の生活を蹂躙することに何ら頓着しないキライがありますから。
これは、ナポレオン以前の、傭兵に頼って戦争をしていた時代の名残で、今現在の、例えばアメリカのイラク戦争に至るまで見られる傾向だそうです。
すなわち、「略奪は兵士の正当な権利である!」
すさまじい考え方ですよね。
でも、兵士に支払うべき給金が無い場合(きちんと支払われる方が稀だそうです)、そうした戦争犯罪行為を報酬の一部として黙認してきたのが、戦争の一つの側面だった訳です。
一部の兵士、あるいは傭兵には、それが目的で戦闘に参加している場合すらあります(指揮官の統制がまったく効かなくなったり、あるいは、指揮官すら一緒になって残虐行為に興じた事例は、特に冷戦以後の民族紛争で顕著に見られます)
つまり、占領都市の防衛には、外的脅威よりも内的なそれに、より神経を尖らせる必要がある場合が多いのだそうです。
敵都市攻略戦が戦術的勝利に終わったとしても、占領地統治に手間取り、その結果、その後の作戦立案にまで支障を来すようであれば、それは結局、一つの戦闘によって得たモノよりも、失ったモノの方が多かった、という皮肉な結果になるのです。
と、ここまで読んでいただいた人の中には、もう既にお気付きになった方もあるのではないでしょうか?
この、都市攻略戦の勝利そのものが、敵軍の作戦だったら?と、いうことです。
あらかじめ、占領後の統治に支障を来たすよう、散々手を打った上で、退却するんです。
まぁ、実際には、リアリティを演出するために、激しく抵抗する訳ですが、その結果生じる損失(市街戦に発展した場合、両軍の兵士の他、市民の犠牲も計り知れません)は作戦を成功させる上での許容範囲内の数字として、あらかじめ計上されているんです。
この点、作戦立案に関わる人たちというのは、前線で戦う兵士よりも、ずっと血も涙もない決断をするモノなんですね。
自国の都市の一つを、敵軍の手に明け渡すことによって、彼らの進軍を遅らせ、指揮命令系統に混乱を生じさせられれば、それは、負けた側がより優位に立つ、という逆転現象を起こしたことになります。
これをあらかじめ企図して作戦を立て、その後の作戦に繋げてゆくこと、それが「戦略」なんだそうです。
優れた戦略家というのは、きわめて繊細かつ大胆に作戦を練り、誤差数パーセントの範囲で作戦を成功させるんだそうです(まぁ、実際はどうなんでしょうか?)
天才的戦略家は、勝っても負けても何があっても、結果的には、勝ったと周囲に思わせることができます(ある特定の戦争では、勝利の規定を、個人の解釈に求めざるを得ないことがあるそうです。天才的戦略家は、そこにつけ込んで自分の才能を売り込み、巧みに人心を掌握していきます。そして、後に彼らは、軍閥のトップに上り詰めて、政権すら手中に収めるのです。彼らに共通する特徴は、多弁・雄弁であることです)
さて、一つの勝利が後の敗北となり、また、その逆の事態すら勘案して多角的に作戦を組み立てることが戦略なのだとすれば、私たちがこれまで遊んできた、少なくとも国産のシミュレーションゲームの中で、実際に戦略を体験できる(あるいは味わえる)ゲームはどれだけあったんでしょうか?
海外産には、こうした戦略の醍醐味を味わえるゲームがいくつかあります。
例えば、私の好きなゲームのシヴィライゼーションシリーズなんかがそうです(シヴィライゼーションについての説明は割愛させていただきます。だって、長くなるんだもん)。
シヴィライゼーションのような、ごっつい戦略シミュレーションゲームを遊んでいると、たまにこう思うんです。
「人的損失をまったく考慮しなければ、どんな戦略だって、いくらでも立てられる」って。
故人曰く、「自ら危険に身をさらすことがなければ、人はいくらでも勇敢になれる」
う~ん、まったくその通りですね。
戦略的意義を論ずるにしても、戦略そのものに第三者の意図が介在したとすれば、それは、内外の専門家によって細切れに解釈される間に、欺瞞され、隠蔽され、次第に本来の意義を見失った歪な形での大義名分として、泥沼の戦争状態をただ継続させるための方便となることだってあり得るんです。
タクティクスオウガでのヴァレリア島の内戦は、民族間対立に根ざした紛争であるとしながら、その実、一部の権力者と、それに追随する者たちによって、巧みに誘導された戦争だったことが解ります。
そして、そうした戦争状態を創出するために、権力者がおこなった演出の一つがバルマムッサでの一連の事件だったんです。
作者である松野泰己さんが、インタビューで言っていた通り、このゲームのストーリーが、当時のユーゴ紛争に影響されたとすれば、それはつまり、このゲームが社会風刺的要素を多分に含んでいるとも言えます。
バルマムッサでの一件がそれに当たるのなら、もしかしたら、道徳的賛否を呼んでもおかしくなかったはずです。
しかし、ゲームという媒体を通じて、奇しくも戦争の実態の一端があからさまになったことは、タクティクスオウガというゲームの特異性と共に、松野泰己とそのチームの、見事な功績だったと思います。
そして、それが、どれほど意義のある事かきちんと検証すれば、タクティクスオウガの価値というのは、現行の評価基準には容易に当てはまらないと云う事が解るんじゃないでしょうか。
え~、長々と話してきましたが、どうも、タクティクスオウガの総括らしき総括は出来そうもないですね。
だって、今こうして話している最中にも、ちょっと気を抜けば支離滅裂になりそうなこの感じ・・・
これってきっと、このゲームの持つフトコロの深さが、私の思考を丸ごと飲み込むほど深いからじゃないか、って思ったりするんです。
いくらでも解釈の幅が広げられるんだったら、もう、話の仕様が無いですよ。
でも、私を含めて、このゲームに触れた人の中には、それまでの体験とは違う、何か心に訴えかけてくるモノを感じ取った人もいるんじゃないでしょうか?
戦争というテーマを、エンターテイメントの枠から逸脱させながらも結果としてさらなるエンターテイメントの高みに昇華させたストーリーテラーとしての松野泰己の才能に魅了された人は特に。
富野由悠季とか、司馬遼太郎とか、田中芳樹とかで、青春時代の一側面がある意味完結してしまったような人には、松野泰己にも是非、触れてみて欲しいですね。
日本文化史の偉大な才能の一端を知ることになるはずです(これは、ちょっと言い過ぎかな・・・)。
まぁ、そんな感じです(てきと~でスイマセン)
とりあえず、タクティクスオウガ日記は今日で締めたいと思います。
まだ、話すべき事はたくさんあるはずなんですけど、今は、どうも頭がついていかないです。
それに、松野作品には、まだファイナルファンタジータクティクスやベイグラントストーリーがありますし、何と云っても驚愕の大問題作ファイナルファンタジー12もあります。
折を見て、こうした作品に再度触れつつ、こうしてちょっとずつ話していけたら、その内、また新たな角度からタクティクスオウガを検証することも出来るかも知れません。
と、云う訳で、名残惜しくはございますが、これにて幕引きとさせていただきます。