鬱屈した十代を過ごした者にとってのヒーロー像と、そうでなかった者のそれとでは、自ずからその性質に明らかな差異が生じることは、仕方の無い事であります。
健全な精神生活さえ送っていられれば、世間が太鼓判を押す立派な人物を、自分の理想像として偶像化する事も容易なのでしょう。
しかし、そうではない人の場合、社会的評価の高い人物ほど胡散臭く目に映らなくもありません。
それは、社会の裏側にこそ関心が向く嫌いのある人ほど、その傾向は強いと思われます。
そういう人であれば、自分の理想とする人物にしても、同じく屈託を抱いた者ほど魅力的に映るのも仕方がないのでしょう。
さて、人がヒーローに求める条件は何なのでしょうか?
偉大な功績。
優れた才能。
有り余る金。
人々を啓蒙する思想。
まねできない生き方。
分類しようと思えば、いくらでも出来そうなこれらの条件も、究極的には二つに分けられるように思います。
それは、世間に目を向ける者と、背を向ける者です。
日本人に最も人気のある時代、幕末を例にして考えると幾らか分かりやすいかもしれません。
現代人にとっては、一般的に、維新を成し遂げた薩長系の討幕派の若者こそが、日本の将来を憂いて戦った正義のヒーローとして捉えられているのではないでしょうか?
しかし、戊辰戦争で薩長軍に錦の御旗が揚げられるまでは、彼らこそが体制に歯向かう反乱軍だったわけです。
この反乱軍の中には、日本史を代表するテロリストである高杉晋作も含まれています。
仮に、日本が維新を成し遂げることなく、近代化が遅れたとしたら、その後の日本人の精神性は全く違うものになったでしょう。
幕末の志士などは、皆不満分子として区分され、当然、人々が憧れの目を向けることは少なかったはずです。
政府が教育する理想の国民像というものも、薩長政府と徳川政府(架空の話ですよ!)とでは大きな違いがあったはずです。
特に、拠って立つ所の少なかった薩長政府は、新興ヤクザ勢力よろしく、過剰に攻撃的になり、かつ、神話にすがって自己の正統性を保持しようと躍起になりました。
それは、国力を増進して列強に対するのと同様に、新政府に対する国民の支持を得る事が急務であったためです。
ただでさえ困窮を極めていた地方の農民から、さらに税金を徴収するための法律を施行したため、反乱が起こることも少なくなかったと聞きます。
そうした、国民の不満やら不信やらを払拭するために必要だったのが、愛国教育だったのでしょう。
歴史の先例に倣うのなら、愛国教育のための最も有効な手段は、偶像崇拝の他にありません。
維新後の天皇の神格化などもその支柱でありました。
討幕派の志士の美談が声高に語られるのに対し、幕府系要人のそれは、勝海舟に代表される開国論者などを別にすれば、一般の国民の耳に入るような名前はほとんど無いのではないでしょうか?
と、なると、坂本龍馬の名前が国民的ヒーローとして認知されるようになったのは、日本人の精神史においても、ある種の転換点として捉える事も出来るはずなのです。
さて、今回取り上げたアシュラムなる人物。
彼は、「ロードス島戦記」シリーズ登場する、いわゆる敵役であります。
主人公パーンのライバルとしてたびたび登場する彼は、悪の親玉である暗黒皇帝ベルドの後継者としての役回りを課せられ、次第にその存在感に深みを増していき、読み手によっては主人公を圧倒する魅力を放つようになります。
英雄戦争後の戦後処理と、邪神戦争後のエクソダスに尽力した事も、アシュラムという人間を測るための大きな要素となります。
惜しむらくは、物語の性質上なのか、あるいは作者の力量の問題か、思想的側面においてアシュラムという個性の本質に迫る描写がほとんど無いという事です。
したがって、「ガンダム」におけるシャア・アズナブルと対比した場合、アシュラムのヒーロー性(ダークヒーロー、あるいはアンチヒーローとでも云うべきか)というものは表面的なものに限定されるという事です。
それでも、世間に意見を持ちつつも、優等生ではあり得ない中学生諸君であれば、シャアと同様にアシュラムにも心惹かれるのではないでしょうか?