アメリカの映画って、最近、世紀末的な世界を舞台にした映画が多くなった様な気がするんだけど、それってやっぱり、アメリカ国内の環境問題に対する関心の高まりを反映したものなんですかね?
いま、パッと思いついたタイトルを挙げてみると、
・デイ・アフター・トゥモロー(北半球が寒冷化する物語)
・アイ・アム・レジェンド(ウィル・スミス主演、人体変異ウィルスが蔓延したニューヨークに1人残された科学者の孤独な奮闘を描いた作品)
あと、私はまだ見ていないんですが、ローランド・エメリッヒ監督の2012という映画も、世界の終末を描いた、それらしい物語のようです。
また、古い作品では、
・猿の惑星(遠い未来、猿と人間の立場が逆転した世界の物語)や、
・マッドマックス(砂漠化が進んだ世界で、タフガイの主人公が、半裸のモヒカン達と死闘を繰り広げる物語)
とか、結構いろいろとある訳ですが、この間の日曜にWOWOWで放送された、ディズニーのウォーリーという映画も、人類がいなくなった遠い未来の地球に1人(一機?、一台?、一匹?)残された作業ロボットのウォーリーの活躍を描いた、まぁ、何と言いましょうか、世紀末終焉期的物語です。
この主人公のウォーリーなんですが、アナクロ全開の旧式作業ロボットなんですが、ちょっとだけ自我があるんです。
で、この自我がですね、泣かせるんですよ。
何だかんだ言っても旧式ロボットですからね、計算能力はある訳です。
カテゴライズ能力も備わってます。
だからロボットとしての本来の仕事(スクラップの圧縮廃棄)は数百年間欠かすことなく続けているんです。
でも、ウォーリーの幼児的自我は、過ぎ去りし文明時代の名残(いわゆるガラクタというやつです)に強い執着を示して収集し、ミュージカル映画のビデオを再生しては、人恋しさを感じてしまうという、
もう、兎にも角にも話の序盤は、切ないんですよ。
アメリカ的なオーバーアクションって、とくにディズニーアニメのキャラクターの動きにぴったりな仕草だと思うんですが、この、大げさなボディランゲージって、元々は、有史以来の戦争の歴史から得た教訓が元になってるって云うじゃないですか。
敵と味方を明確に区分するために、自分の立場や意見を、言葉を超えてより明確に示すという、言わば、余計な血を流さないための知恵というやつです。
で、あればですよ。
他人との直接対話が前提のアメリカ的オーバーアクションを踏襲したウォーリーの仕草というのは、その対象となる他者が存在しないこの映画の序盤では、つねに無視され、空回りするかのような寂しさを感じてしまいます。(ゴキブリ型ロボットをその対象と見なすかは、また別の話だと思うんですが・・・)
言語論理的思考能力の有無をほとんど感じさせないウォーリーの、他者との接触を切望するかのような仕草というのが、例えばロビンソン・クルーソーが無人島で感じたそれよりも、はるかに純化したものであるように思えるのは、やっぱりウォーリーの自我が人間のそれよりもきわめて限定されたものであるからだろうと思うんです。
と、なると、この、ウォーリーというキャラクターは、キリスト教で言うところの「天使」に限りなく近い存在と云う事が言えるのかも知れません。
すなわち、エデンの園のアダムとイヴは、禁断の知恵の実を食べ、余計な自我を身につけてしまったために、神によって人間界に放逐されてしまいました。
そして、人類のいなくなった世界に取り残されたのは、いまだ知恵の実を食していない作業ロボットのウォーリーただ1人であるという。
こういう風に考えると、ちょっと皮肉な感じがしないでもないですね。