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ドリッズトとその物語 その5

2010-02-09 17:43:11 | ドリッズトとその物語

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 メンゾベランザン(ダークエルフの都市)の貴族階級に属するダークエルフは、然るべき年齢に達すると、その資質に応じて3つの進路が示されます。

 一つは、尼僧院。

 これは、主に支配家分家の中でも最も優れた女子が、直接蜘蛛の女王の秘技に接し、且つその教義を深く理解する事によってメンゾベランザンの指導者になるべく教育を受ける、いわばエリートコースです。

 一つは、魔法院。

 これは、フォーゴットン・レルム(ダークエルフ物語の舞台となる世界)における、一般的な魔法を習得するための教育機関。

 この世界では、戦闘に関しては魔法使いの技の方が戦士のそれよりも圧倒的に有利のようです。

 尼僧院とは違い、魔法院には才能が認められれば男のダークエルフでも入学が認められます。

 そして、もう一つが白兵院。

 ここは、まぁ、士官学校みたいなものでしょうか。

 有能な指揮官、あるいは頑健な兵士を育成すべく、日々苛烈な訓練が施されます。

 

 この3つの教育機関のいずれかを経て、ダークエルフの子弟は立派なメンゾベランザンの市民へと成長していく訳です。

 しかし、これら教育機関の果たす役割というのは、なにも優れた人材の育成に限った事ではなく、むしろ、然るべきメンゾベランザンの市民にふさわしい道徳観念を刷り込む事の方がより重要であるとも言えます。

 つまり、悪の思想教育。洗脳ですね。

 

 作中では、邪悪なダークエルフの子供たちが、生まれながらにして邪悪な精神の素養をことさら顕著に有しているとは、必ずしも断定していません。

 社会との接触によって次第に悪に染まってゆく過程というのを、もしかしたらサルバトーレ(ダークエルフ物語の作者)は、この教育期間によって浮き上がらせようとしたんでしょうね。

 それは、現代におけるイスラム過激派とテロリスト養成過程の問題や、紛争地帯における少年兵士等の問題を物語の中に反映させた、若干安易なメタファーであるとも言えます。

 なんといっても、悪を行使するための規律ある悪の社会、なんていうのは、やっぱり無理がある訳です。

 したがって、この設定を現実世界に反映させた物語をやろうとしても、まず間違いなくひどい結果を招いた事でしょう。

 

 しかしです。

 こうした無謀な設定も、ファンタジーの世界では大いに輝きを放ってしまうから不思議です。

 それは、おそらく神という存在が実態を持って人間の世界に接触しているからなんでしょうね。

 あとは魔法ですか。

 こうした超常的な力が社会の一定の秩序を維持していく事によって、一見、突拍子もない悪の社会の設定も、破綻なく物語に組み込む事ができた訳です。

 

 現実の世界では、歴史上、いわゆる悪徳を励行した国家(指導者と言うべきか)というのは、すべからく破滅しています。

 市民が彼らを見放しちゃうんですね。

 

 私が子供の頃に見た、確かドラえもんだったと思うんですが、古代エジプトのピラミッド建設をのび太が見に行く話だったと思います。

 そこでは、多くの奴隷たちがムチを打たれながら、ピラミッドの石材を引いている姿が描かれていました。

 

 「こうした重労働がピラミッド完成までの30年間にわたって続き、その間の死者はエジプトの砂漠に累々と云々・・・」 とありました。

 しかし、こうした歴史の見方も、いまでは随分変わってきたようです。

 ピラミッド建設事業が、ナイル川の氾濫期の公共事業的役割を担って雇用の創出にあたったとか、実際の労働には貴族の子弟も数多く参加していたとか。

 まぁ、素人の私には、実際にどちらが正しいのか、確信を持って判断する事は難しいんですが、それでも、ムチャクチャな強制労働が30年続くことよりは、はるかに実際的な考察のように思えます。

 だって、そんなムチャクチャをやってたら、まず間違いなく反乱が起きますよ。

 スターゲイト(ローランド・エメリッヒ監督のSF映画)でも似たような描写があったじゃないですか。

 

 というわけで、実際には不可能な設定でも、ファンタジーという媒体を用いれば、何とも面白い仕掛けに化けるという、その証左がダークエルフ物語ではないでしょうか。

 

 ドリッズトの暗黒の学生時代は、真っ当な学生物語を超絶する何かがあるように思えます。


ドリッズトとその物語 その4

2010-01-19 17:49:24 | ドリッズトとその物語

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 例えそれが悪の社会だとしても、 社会という体裁を維持していくためには、それなりの秩序がなければいけないのだそうです。

 ダークエルフの子供たちは、悪夢のようなしつけの期間を経て、自分たちの社会の規律をこれでもかとたたき込まれます。

 規律ある悪を正しく継承していくことが、悪の社会を正常に機能させることができる唯一の方法であり、その為の教育でもある。のだそうです。

 

 規律ある混沌の正常な継承・・・って、もう何が何だかめちゃくちゃな感じですね。

 でも、それだからこそ蜘蛛の女王の教義が励行する悪の論理がキラッと光って読者を引き込むんでしょうね。

 何と言っても、悪だ悪だと盛んに言っていますが、そんな悪だらけのダークエルフ物語を読んでいても、ほとんど気が滅入るようなことはないはずですから(たぶん・・・)。

 それは、いわゆる暗黒小説に見られるような、人間の悪とはまったく性質が異なっているからなんだと思うんです。

 善と悪の境界が常に曖昧な人間の道徳は、いつだって悪まっしぐらなダークエルフの道徳に比べて、いかにもイヤな湿度をまとっています。

 善と悪との葛藤が無い分だけ、ダークエルフの悪はカラっと乾いている訳です。むしろ、さわやかなくらいです。

  

 さわやかな悪は、読者のページをめくる指を鈍らせたりはしないはずです。

 何と言うか、う~ん、不良漫画を読んでいるような気分、とでも言えばいいのか・・・あるいは正統派ヤクザ映画をみているような・・・ まぁ、ともかく、イヤな感じはないはずです。


ドリッズトとその物語 その3

2010-01-15 17:19:36 | ドリッズトとその物語

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 まず最初にダークエルフの出自について、ちょっと話したいと思います。

 地下世界アンダーダークにて邪悪な闘争社会に暮らすダークエルですが、もともとは地上エルフと同じ種族であったようです。

 では、何故彼らが袂を分つことになったのか、というと、それは数千年前の神々の戦争にその原因があったようなんです。

 善の神に付き従ったエルフ族が地上に残り、そうでなかった者が地下へと逃れ、邪悪な蜘蛛の女王への信仰のもと、肌の色まで変え、その信仰に殉じているというのです。

 

 さて、ダークエルの社会は絶対的な女性優位社会です。

 実際には優位どころの話じゃなくて、男は奴隷階級の一歩手前というか、それはもうひどい扱いを受けています。

 斯く云う主人公のドリッズトも、その初期養育段階においては、彼らの社会の掟を教え込まされ、また、その過程においてはひどい折檻を受けています。

 

 ダークエルフの都市メンゾベランザンでは、分家という門閥単位で社会が構成されていて、それに属さない者(例えば身寄りのない者)は社会的にまったく意味を成さない者として見なされます。

 メンゾベランザンの都市運営は、都市内に存在する数十の門閥の内、上位8分家によって構成される支配家会議によって為されており、各分家にとって、この8分家に上り詰めることが目下の最重要事であるとされています。

 その為の権謀術数を弄することが、すなわち蜘蛛の女王の教義に沿うことになるのです。

 そういった訳で、互いの分家の足を引っ張り合い、時に抹殺していくのがダークエルフの社会では常識的道徳としてまかり通っている訳なんです。

 

 こうして見ていると、いちいち社会なんか作らなくても、ずっと互いに戦っていた方が蜘蛛の女王のご意向に沿っているんじゃないか、と思ったりもするんですが、そこは女王様の陰険極まりない所で、己が信徒たるダークエルフにちょっとだけ希望を持たせるんですよ。

 そのわずかな希望が断ち切られ、絶望と共に死んでいくダークエルフを眺めることが、蜘蛛の女王の本当の望みなんですね。

 

 意図的に極限まで肥大化させられた虚栄心を満足させるため、終わることのない流血の宴に興じる同族の狂気を目の当たりにしたドリッズトが、如何にして自我を確立していくのか、それはまた次回に。


ドリッズトとその物語 その2 

2010-01-11 17:28:36 | ドリッズトとその物語

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 ファンタジー小説の欠かせない要素の一つに、神様の存在があります。

 でも、この神様というのは日本とアメリカ(キリスト教世界)とでは、その扱いにちょっと違いがあるようなんです。

 アメリカでは(アメリカと限定するのは、その他の国のファンタジー小説を読んだことが無いからです)基本的に善悪二元論の象徴なんです。

 小説に限らず、多くの映画やドラマでその傾向が見られるんですが、特にお金が掛かってそうな大作ものに顕著なこの善悪二元論。

 まぁ、簡単に言うと教理に基づいた善行は報われ、そうでない行いは報われないということなんです。

 

 この単純極まりない原則が、意外にも、硬派な社会派ドラマなんかにも強い影響を及ぼしている所がアメリカの面白い所だと思うんです。

 社会派ドラマとはちょっと違いますが、海外ドラマの24(ジャック・バウアーのやつです)なんかを観ていると、けっこう面白いですよ。

 登場人物の取った行動が、その後の彼らの運命に少なからぬ影響をもたらしているようなんです。

 テロリストやそれに荷担した者は、きっちりとその報いを受けますし、そうでない者も、それぞれに教理の判定を受けているように見えます。

 

 ただ、この教理の判定というやつは、なかなか上手くできていまして、ここがアメリカのしたたかな所だな、と思ったりするんですが、つまり、キリスト教的理念とアメリカの国益は矛盾しない。ということなんです。

 まぁ、こういう理屈は、何もアメリカに限ったことではない。と思われる方もあるかもしれません。

 でも、先進国の中ではアメリカが突出しているように思えるんです。(政教分離が基本の民主主義なのに、神の法に従って戦争を始めてしまったりとか、テロ対策の一環として自由な言論の自粛をうながしたりとか)

 

 アメリカの(あるいはアメリカ国民の)良識は、こうした自己矛盾を微修正する事ができましたが、それでも10年近く掛かりましたからね。

 やっぱり、キリスト教の影響力というのは私たちが考えてる以上に強いんですよ。

 

 そういった訳でアメリカという国は、一大エンターテイメントの国でありながら、ファンタジー小説においてもキリスト教的善悪二元論の原則に、おおいに縛られていると言えるんです。

 

 では、前置きはこのくらいにして、(なんて長い前置きなんだ・・・)

 

 さて、ダークエルフ物語の世界にも神様が多数出てきます。

 固有名詞に関しては、あまりにも数が多く、また、その発音も非情にややこしいため、今はできる限り差し控えていく方向で話していきたいと思っているんですが、(ただ単純に、私がきちっと把握していないだけなんですが・・・)

 ダークエルフ物語の作中で、最も多く登場する神の名前が「蜘蛛の女王ルロス」です。

 この蜘蛛の女王なる神様は、地下世界に住むダークエルフ達が唯一無二に信仰する邪悪な神様です。

 どのくらい邪悪かというと、それはもう、筆舌に尽くしがたい感じでして、作者のサルバトーレも作中でイヤというほどその邪悪さを強調されておられます。

 そんな邪悪極まりない蜘蛛の女王を信仰するダークエルフもまた、その薫陶を受けて、もう、これでもかっていう程の邪悪さを読者に見せつけてくれます。

 

 さぁ、この邪悪な蜘蛛の女王と、その忠実な下僕たる邪悪なダークエルフが、一体どれほど邪悪なのか、次回「地下世界の邪悪な住人」にて話していきたいと思います。


ドリッズトとその物語 (ダークエルフ物語)

2010-01-04 18:36:18 | ドリッズトとその物語

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 2010年ですか。

 「光陰矢の如し」とはよく言ったもので、「まだ、ずっと先の事じゃないか」と、買い換えを先延ばししてきた私のブラウン管テレビも、来年には、もう見られなくなってしまうんですね・・・うう。

 テレビもビデオも、まだ現役バリバリなんだけどなぁ・・・もう、たのむよ総務省。

 と、新年早々愚痴から始まってしまいましたが、皆さんはこのお正月をいかがお過ごしだったでしょうか?

 私は、ビデオでドラマ三昧・読書三昧でした。

 ゲームなんてほとんどしませんでした。

 ファイナルファンタジー13のディスクが入ったままのプレステ3は、部屋の片隅で寂しくほこりをかぶっています。

 

 ファイナルファンタジー12の時もそうだったんですが、ショックが大きすぎて(いろんな意味で)それまでのゲーム熱が一気に冷めてしまったようなんです。

 いつものように、極限値引きのバーゲンゲームの一本でも買ってきて、正月番組を見ながらのグダグダプレーでお正月の時間を費やすということも有り得たんですが、さすがに今年は・・・

 

 でも、XBOX360のカルカソンヌはちょこっと遊びました。

 さすがに新年早々は過疎化が厳しいかな、とも思ったんですが、なんのなんの、めったに見かけないプレーヤーの皆さんでごった返してました。

 

 さて、個人的には、もう少しお正月気分を味わっていたい所なんですが、あんまりダラけていては当ブログの更新に支障を来たす恐れがあるため、ここは一つ、心機一転、気合いを入れ直して行きたいと思います。

 

 2010年第一回目は、私が最も好きなファンタジー小説の一つ、「ダークエルフ物語」の主人公、ドリッズト・ドゥアーデンを紹介していきたいと思います。

 

 一般的に、日本のファンタジー小説は底が浅いと言われています。

 ファンタジーファンの方にはご立腹されるかもしれませんが、私もおおかたこの意見に賛成なんです。

 というのも、日本のファンタジー小説(あるいは物語)は多分にコンピューターゲームを意識するきらいがあって、特定の読書層にしか受け付けられないということがあります。

 まぁ、最近では上橋菜穂子さんの「守り人シリーズ」や「獣の奏者」、小野不由美さんの「十二国記」などが高い評価を得ていますが、この2人はもう、別格の感があって、それに続く作家がなかなかいないんです。

 私なりに、評価の高いファンタジー小説のその理由を考えますと、一つにはどの作品にも多元的な構成要素を持っているということです。

 これは簡単に言いますと、個人的動機と、社会動静が、きっちり別個のものとして描かれていて、ファンタジー物語にありがちなご都合主義をゆるさない、ある種の重厚さを醸す一因となっているようです。

 

 「蛇王ザッハークを倒すためには、英雄王カイ・ホスローの血を引きし勇者が、宝剣ルクナバートを手にしなければならない」といった設定を、真っ正面に踏襲する作品が多すぎる訳です。

 伝説と現実との距離感を踏まえ、あくまで人知の及ぶ限りの範囲で物語を進めていくことが、少なくともファンタジー作品には必要なんじゃないかと私は思うんです。

 まぁ、ご都合主義的ヒロイックファンタジーも、面白いっちゃぁ面白いんですが・・・やっぱり骨太な作品もなければ、日本のファンタジー小説は廃れる一方ではないかと危惧してしまうんですが(もしかすると、もう立ち直れないのかも・・・)

 

 そんな日本のゲーム的(RPG的)ファンタジー小説に辟易されてる方、「ファンタジーなんか子供の読み物じゃないか!」と思われる方には、機会があれば是非ともR.A.サルバトーレの「ダークエルフ物語」を読んでもらいたいですね。

 もしかすると、ファンタジー小説に対する見方が、ちょっと変わるかもしれないですよ。

 特に、第一部上巻の「故郷メンゾベランザン」は傑作です!

 でも、普段あまり読書慣れしていない人には、ちょっと厳しいかもしれません。

 何と言っても、かなり長大な作品ですから。

 

 と言う訳で、今回から数回にかけて、ドリッズトなる人物が如何なる者であるのか、その物語の前半を通して、ちょっとだけ紹介していきたいと思います(ネタバレなんていたしません!)

 

 ちょっとだけ更新が遅れるかもしれませんが、気長にお待ち頂けるようお願い申し上げます。