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十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

一票の重み

2019-11-25 05:00:00 | 投稿

 選挙は終りましたが、北海道新聞「卓上四季」に、次の記事が載っていました。

 『始まりは、16歳の少女だった。スウェーデンの高校生Gさんは昨年8月、首都ストックホルムの議会前でたった一人の座り込みを始めた。地球温暖化対策の動きが鈍い国際社会に抗議するためだ。週1回の座り込みは次第に関心を呼び、活動は世界に広がった。3月15日には世界百数十カ国で一斉行動が行われ、10代を中心に150万人の若者が参加した。彼女は呼び掛ける。「私たちは、変革を起こすには小さすぎるということはありません」と。』

若くても一人であっても、必ずしも無力とは限らない。景気や雇用、福祉、原発やカジノ、JR、課題は山積だ。今は実感がなくても、人口減少が続く限り社会は縮んでいく。将来、切実に感じはじめてから不満を言っても、手遅れかもしれない。

ある新聞が報じていた。「若い人の考えが変われば、社会も変わる」と。


「十勝の活性化を考える会」会長

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


十勝の活性化を考える会」会員募集



「高校生へのアプローチを行なう意義」の講演

2019-11-24 05:00:00 | 投稿


平成31413日、「十勝の未来を考える自治職員の会」主催、大正大学教授浦崎氏の講演「十勝広域で高校生へのアプローチを行う意義」を聞いてきた。会は、次の開会挨拶で始まった。

『急激に時代の変化が進む社会情勢の中、二十年後の十勝を考え、次世代に地域を繋いでいくことを一年間みんなで考えて、辿り着いた一つのキーワードは、「高校生」でした。

二十年後、地域を動かすのは今の高校生の世代です。新年度、そして平成が終わり新たな元号の令和へ。十勝の未来を多くのみなさんと考え、具体的な行動に繋げていきたいと考えています。』と。

講演を聞いてきた理由は、私たちの会の名称十勝の活性化を考える会と似ており、何かの参考になると思ったからだ。主催者の挨拶にあるように二十年後の十勝を支えていく人たちは「高校生」で、確かに重要と思った。この講演を聞いてから、私たちの会の検討テーマを「教育」と「町内会」にしようと思った。

先日、帯広市中心市街地にある商店街を歩いてきたが、「空き家」と「空地」が目立った。このような現象は何も帯広市だけの現象ではなく、全国各地に見られる現象で、人口減少が進むとまちがゴーストタウン化してしまう。

例えば、米国のデトロイト市はかつて自動車の町として知られ、最盛期には180万人の住民がいたが、現在は70万人程度で失業率や貧困率が高く、犯罪の町として有名である。だから、十勝の活性化のポイントは、知恵比べでもある。

 

「十勝の活性化を考える会」会長

 

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往生際が悪いとは・・・

2019-11-23 05:00:00 | 投稿

結納の日、義母が嫁ぐ娘の義父に「あなたは往生際が悪いですね」と言った。また先日、相撲界で一番長い力士人生を送った安美錦関が引退の記者会見で、次のようにも語った。「好きな相撲を長くとれて、幸せな力士人生だった。」と。 

 

引退には、力士の引退のほかプロ野球選手の引退、歌手の引退などいろいろあるが、私は8年前の60歳で定年退職しすぐに脳出血を患ったために、いま再出発している。手術の際、脳神経を切ったので脳血管性認知症であるが、「十勝の活性化を考える会」への投稿などで頭を使うので、ボケ防止にも役立っている。

 

ある日、私より10歳ぐらい年上とみられる女性同士が、人生は「引き時」が大切だと話しているのを聞いて思った。私の引き時は、いつになるのか・・・・・?

私の記憶に残る力士の引き時は、横綱の千代の富士関である。横綱は引退会見で、「体力の限界・・・気力がなくなり引退することになりました。」と呟いたのは有名な話である。

 

私の引き時は、脳出血の時のように突然やってくるかもしれないので、悔いのない毎日を送ろう。そして、出来れば最後まで現役でいたいと思っている。現役であれば、様々な人との出会いがあり、誰かの役に立つことができるかもしれない。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注)往生際が悪い

(読み方:おうじょうぎわがわるい
窮地
追いやられて負け認めざるを得なくなった局面においてもなお態度振る舞い潔さがなく、未練を持ってぐずぐずしていたり、悪あがきをしていたりする様子などの意味の表現

(出典:Weblio 辞書

 

 

注)脳卒中

 脳卒中について知りましょう.「脳卒中」にはいくつかの種類がありますが、大きくは脳の血管がつまる「脳梗塞」と、脳の血管が破れて出血する「脳出血」や「くも膜下出血」に分けられます。

 

(出典:田辺三菱製薬株式会社、「ノウコウソク.ネット」より抜粋)


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連載:関寛斎翁 その8 松村亨先生

2019-11-22 05:00:00 | 投稿

松村亨先生 

陸別町関寛斎資料館にて 

 

藩医松村有輔が戊辰戦争で没した後、その子である松村高知が平藩落城後15年で長春館病院を設立したのは、松村有輔が早くから洋方医術のすばらしさを知り、これからの医療は病院で洋方医術を行うことであることを松村高知に言い聞かせたことが発端であります。そしてこの時代の先駆者達の基本的哲学が松村鐵郎、松村亨、そして、現在の理事長である松村耕三にそのままの形で受け継がれ、それぞれの時代における色々な困難を乗り越え現在に至っています。

 松村総合病院の歴史は1883年松村高知が平町二丁目に松村総合病院の前身である長春館病院を開いた時に遡ります。1886年に長春館病院を松村総合病院に改称し、1951年に医療法人松村総合病院、1954年に財団法人磐城済世会松村総合病院、そして1969年に松村総合病院となりました。松村総合病院は財団法人磐城済世会内の精神病院の舞子浜病院、老人保健施設のシーサイドパインビレッジ、療養型の長春館病院、松村健診センターそして松村看護専門学校などと並存する医療機関として福島県で最も長い歴史と伝統を持つ民間病院であります。

出典:松村総合病院ホームページ

 

§

松村家の七代目であり、松村有輔から数えて四代目となる松村亨前理事長は、医師・病院経営者としての手腕もさる ことながら、歴史にも非常に優れた知見を備えた研究者であった。

いわきの歴史、特に戊辰戦争を詳しく調べ論理的な洞察で歴史的事実を確定して行った。
またその研究は関寛斎にもおよび、いわきに残された痕跡を調べ上げ、陸別町関寛斎資料館 斎藤館長と連絡を取り、数々の貴重な資料を贈呈されている。そして資料館にも自ら足を運び研究を深められた。
それらの活動の一端を「松村病院史」としてまとめられ、世に出されている。今回はその復刻版から一部を引用して、自らの経験と、いかに細かな調査・論理的な洞察・組み立てが行われたのか紹介してみたい。


福島県浜通り方部の戊辰戦の開戦日の特定

『資料を見ると、浜通りにおける新政府軍と同盟軍特にいわき平藩の、最初の交戦のあった月日が明らかでない。特に平藩の最初の戦死者である本岡堅左衛門の、戦死月日が明らかでない。平藩の資料では六月十六日となっており、新政府軍側の資料ではいずれも上陸の翌日六月十七日となっている。

 このような次第で、十六・十七両日の、両軍の行動を資料に基いて、つまびらかにしたい。まず六月十六・十七両日の平潟上陸は、いつどのように行なわれたか、その時の両軍の状況から順を追って点検し、明らかにしたい。
筆者は先の大戦において、北方派遣軍に召集され千島列島で二度に亘って、上陸作戦を経験したので、軍隊が状況未知の地に上陸する時の、経路・方法・順序などを承知しているが、最初先駈要務者と衛兵を、抵抗の有無や程度による人員数を限定し、上陸せしめるのが原則である。これは前もって行なう、望遠鏡による観察を更に深めるため、部隊上陸に際して戦闘の必要あるか、敵の防備や地理的障害の観察、住民感情や環境に異常が無いか検討する。「北茨城市史」上巻によると、平潟港住民の見聞記録として「六月十六日五ツ頃(午前八時)よりバッテイラ三艘にて上陸、何分官軍様の御威勢凄まじく仙台御人数早々残らず引払」とあり、これは現在の平潟町アマヤ薬局菊池半氏所蔵の、先祖安満屋の主人が誌された「座右記」より採ったものと思われる。なおバッティラとはポルトガル語bateiraで、洋式船塔載の端艇をすべて称した。

(中略)
 この時駐屯して、前から要所を警備していた同盟側、仙台藩二ヶ小隊の兵士たちは、指揮する大江文左衛門の自己判断で、上陸兵に対して戦闘行為に出なかった。前掲「復古記」にある通りである。「そのうち本船から斥候隊一分隊ずつを、ボートで送って来た。こうして斥候隊三分隊が上陸を終ると、仙台藩兵も次第に後退し、ついにどこかへ引上げた様である」(前掲同書)この間に新政府軍の司令部は、上陸して先ず鵜の子岬の、端に近く港内のよく見える場所にある、華蔵院に本営を設置した。
 病院頭取の関寛斉は、浜通り新政府軍の軍医や医務の、すべての行動、戦死者や戦傷者の所属・姓名・創の状態・経過などを、毎日のように延べ紙を綴じたものに筆で書き、なお併せて新政府軍の行動や、一般住民の衛生状態も含めて、貴重な資料を残しているが、その中の六月十六日の所に「同港に滞船九ッ頃(正午十二時)より兵士上陸、病院なお船中に一泊」と誌している。この日仙台藩兵が去った後、平潟の住民たちが、次第に小舟を出して手伝い、薩摩・大村両藩の兵と、小荷駄・大砲など夕刻までかかって揚陸し、船内には佐土原藩(宮崎県)の大砲一番隊、一番銃隊と四番銃隊、および病院一同を残した。

(中略)

両軍いずれにしても、戦略と戦術に従い、上官の厳しい命令通り、軍規を重んじて行動しているならば、六月十六日のこの時点で、両軍の開戦が行なわれるはずはない。然し不幸にしてこのような異変が生じたとすれば、それは軍規と命令を無視した、越権・不法な一種の事故、すなわち両軍いずれかに誤認・錯覚、あるいは過度の興奮状態などが、起こったとしか考えられない。
これは鉄のように緻密で強固な軍隊ならば、絶対に起こらない事だが、単なる虚勢の強がりから、つい威嚇射撃をして了う兵が稀にある。また真に勇気ある行動ではなく、戦いが恐ろしい余りの強迫観念から、例えば隠れて尾行してくる相手を、追撃されていると誤って考え、つい威嚇射撃に走るような事も無いとはいえない。

戌辰私記で第一段は安藤・本岡両藩士が大江に逢い相議す、第二段共に九面から九粁離れた新田山に、退却と決め移動を始める。第三段此の際敵が後を追って来て、本岡が関田で斃される。これは随分変な話で「追撃」と書いてあるが、まだ戦は始まっていないはずで、追撃とはいえず正しくは「追跡」後をつけて来たのだと思われる。

(中略)

もしそうだとしたら、なぜ磐城平藩の家老四名のうち一人でも、堂々とちょうど新政府軍の六月十六日の、呼び出しに応じて、平潟に出向き、本岡藩士殺害の有無と理由を、詰問しなかったのか。たとえ翌十七日でもまだよかった。残念でならない。特に和戦いずれかを決定する前に、少しでも話し合いを有利に展開できたはずと、考えるが如何であろうか。
残念ながら、今は既に百弐拾年余を経ている。これを明らかに実証すること、ほとんど不可能事といわねばならない。
以上の検討を加え、福島県浜通り方部の戊辰戦の開戦は、慶応四年六月十七日と考えたい。』

「松村病院史 第一巻」松村亨先生著


§

私が関寛斎の「追っかけ」を始めるきっかけを作ってくださった、松村耕三理事長先生はじめ、「松村病院史」を復刻して下さったり資料提供をいただいた病院スタッフの方々に、改めて感謝申し上げます。

「十勝の活性化を考える会」会員 K


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世界三大宗教

2019-11-21 05:00:00 | 投稿


世界三大宗教は、キリスト教(約20億人)、イスラム教(約16億人)、仏教(約4億人)と言われるが、信徒数で見れば約11億人のヒンズー教もある。日本の政治・経済・気象が異常になってきたので、後世は「宗教」にすがるほかは無いかもしれない。

哲学者西田幾多郎は、「哲学は、宗教を語ることによって帰結する」といっている。「宗教」は帰着点を示したものだということである。

 

ところで戦争は、人類の歴史においていつも起こるが、民族のほかに宗教も関係している。ボスニアヘルツェゴビナ紛争やイスラエルのガザ地区における紛争も、民族と宗教が関係している。16世紀中頃から17世紀にかけて「宗教戦争」という長い戦争があったが、これからの日本の歴史において、再び戦争を起こしてはならないと思う。

「十勝の活性化を考える会」会員

 

 

注) 宗教戦争

 16世紀中頃から 17世紀にかけて,ヨーロッパの各地でキリスト教の諸宗派の間に行われた一連の戦争。

宗教改革によって生れたルター主義,ツウィングリ主義,カルバン主義,アングリカニズム (イギリス国教会主義) など,プロテスタンティズムの諸教会が,いずれも政治権力との結びつきのもとで領域支配を実現したのに対し,カトリック教会側もいわゆる反宗教改革を通じて政治的に自己の勢力再建をはかろうと努めたことから起った。

ドイツのシュマルカルデン戦争とカルル5世の治世晩年におけるプロテスタント諸侯の反乱、フランスのユグノー戦争オランダ独立戦争、スペインの無敵艦隊 (アルマダ) とイギリス海軍の戦い、初期の三十年戦争などがその代表的なもの。

これらは,カトリシズムを奉じるハプスブルク家という超大勢力を一方の軸として行われたところから、互いに多かれ少なかれ関連をもっており、通商上の経済的利害ともからみ合って海上でのゲリラ戦をも伴った。

戦争の形態としては、イタリア戦争の場合と同様,典型的な傭兵戦争の性格をもち、国土の破壊や住民からの略奪が著しく、この政教紛争の経験を通じて宗教的寛容の思想が強まることとなった。

(出典:ブリタニカ国際大百科事典

 

注) ガザ地区

ガザ地区パレスチナ南西端,シナイ半島の北東に接し地中海沿いに長さ約 45km,幅610kmに延びる細長い区域で,中心都市はガザ。ガザは聖書時代から知られた港町であったが,パレスチナ戦争 (1中東戦争 ) 後エジプトの軍政下におかれ,六日戦争 (第3次中東戦争) 以降イスラエルの占領下にあった。本来の人口 10万人程度であったが,パレスチナ戦争後多数のパレスチナ人がガザの難民キャンプに移り住み,1992年には約 60万人と超過密状態となった。農耕に適した土地が少なく,またイスラエルは地場産業の発展を厳しく抑制してきたため,住民の多くはイスラエルへの日雇い労働と国連パレスチナ難民救済事業機関 UNRWAの援助でかろうじて最低限の生活を維持してきた。このためイスラエルの占領支配に対する抵抗も強く,インティファーダ 1987 12月ガザにおける衝突が発端である。 1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構 PLOの間で調印されたパレスチナ暫定自治協定に基づき,1994ヨルダン川西岸のエリコ地区とともにパレスチナ人による先行自治が始まった。面積 365km2。人口 15740002011推計)。

 

(出典:ブリタニカ国際大百科事典


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