風雲急を告ぐ
『一八六八(慶応四)年、戊辰戦争の口火が切られた。三日後の一月五日、阿波沖では泰然の孫婿、榎本武揚の乗る幕府軍艦開揚と、のちの東郷平八郎が乗艦していた薩艦春日との間で、日本最初の洋式軍艦どうしの海戦が火花を散らした。その翌日、斉裕は旧時代の退潮とともに急逝した。
寛斎は深く悲しみ、藩医を辞そうとしたが許されなかった。
藩では直ちに茂詔が十六代藩主となり、寛斎は引きつづきこの若い藩侯の典医を命ぜられ、行をともにすることになる。茂詔は急ぎ藩論を強引にまとめ、喪中にもかかわらず、二月には自ら兵を率いて京に上り、官軍に付いて討幕に加わる意志を表明した。寛斎は、やや遅れて第二軍の梯津守隊付の軍医として、従軍した。阿波藩でも時勢に従ってすでに洋式軍事訓練を取り入れており、寛斎も断髪洋装姿で乗馬訓練を受けたらしく、凛々しい軍服・断髪姿の写真が伝えられている。
彼の加わった阿波藩隊は、三条実美を大監察とする官軍の一隊として、大坂から海路品川に向かい、すでに官軍に明け渡されていた江戸城西の丸に入ってその警備についた。
官軍の西郷と幕軍の勝海舟らとの談合によって、恭順の意を表していた徳川慶喜の処遇は定まったものの、それらを不服とする旧幕臣の一部は、彰義隊を組織して上野の山に立てこもった。彼らは、市中でも官軍と小競り合い、騒乱を繰り返し、不穏な状勢が続いていた。ここで官軍軍防事務局判事大村益次郎は、実力による彰義隊の討伐を主張して大総督の容れるところとなり、五月一五日を期し、大村の指揮のもと、包囲戦の火ぶたが切られることになった。
大村益次郎、またの名、村田蔵六は、今の山口県の生まれの医者の子で、大坂に出て適塾に学び、頭角を現して塾頭になった人物である。元来は医者が志望であったが、その才能を買われ、幕府の蕃書調所などで兵書の翻訳に従事していた。そのなかで、当時、最新の洋式兵学を身につけ、それを生かして長州藩の兵制改革に目党ましい成果をあげるなど、第一級の軍政・戦略家としての力量を蓄えていた。彼は、大戦闘における野戦病院の重要性も承知していたので、大坂から同じ船団で同行していた寛斎の、医家としての経歴・実力を買い、神田三崎町の講武所に野戦病院を開設することを総督府令として寛斎に指示した。
官軍軍医として
寛斎は病院の開設に当たって各方面に手を打ち、準備に万全を期した。
鳥羽伏見の役における会津藩の江戸での傷病兵対策に当たった学友、佐藤尚中に会ってその助言を求め、同郷の順天堂の後輩、斎藤竜安を呼んで待機した。また、少しさき横浜の官軍軍陣病院に英人医師ウィリスを訪ね、その治療ぶりを見聞している。ウィリスはボンペよりも10年ほど後に大学を終え、初歩的ながら消毒法など、より新しい医術を身につけていたので、その医療技術の吸収が狙いだったのであろう。
上野への総攻撃が始まると、官軍方各藩の傷兵が次々と寛斎のもとに運ばれて来た。彼がこのとき手掛けた負傷者のなかには、薩摩藩の隠密として有名な益満休之助もいたことが「右脚下貫通創、脛骨挫傷、テタニュスニテニ十六日死ス」との記事とともに記録されている。もちろん、この時の寛斎は、益満という人物のなんたるかは知るよしもなかったであろう。テタニュスとは破傷風であるが、この病原菌が北里柴三郎によって発見されるのは、この二一年後のことであって、当時は対症療法のほかに打つ手はなかった。この時期は折悪しく梅雨の季節で、前夜からの雨のため、傷兵は泥まみれであったから、破傷風がとくに多発したのである。
また、三田の薩摩藩邸から、負傷兵の手当を乞うとの通報を受けた寛斎は、そちらにも出張して治療の腕を振るったので、居合わせた西郷隆盛から感謝激賞された。あまり自慢話をしたがらない寛斎も、後年このことだけは時々、周囲の人に思い出話をしたという。
大村益次郎の指揮による上野攻めは、雨天という好運も幸いして、彼の目論みどおり江戸市街への火災延焼もなく、大成功を収めた。
寛斎はその手腕功績を認められ、続いての奥羽越列藩同盟討伐戦に向けて、奥羽出張病院長を命ぜられた。寛斎の心境は、複雑なものがあったにちがいない。』
「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四朗著
上野戦争 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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関寛斎は自ら望むことなく、波乱の運命に巻き込まれながら、しかしその過程で貴重な医療技術や人格・人脈を獲得して行った。
この上野戦争は日本の戦争の歴史において、大きなメルクマールとなる。それまでの刀や弓・槍と火縄銃による切創や銃創に変わり、西洋式の大砲による炸裂弾が兵士たちに致命的な挫滅創をあたえた。また雨降りというだけではなく、地面は泥沼化しており、そこに傷ついた兵士たちが転がり込むという、まさに近代戦の幕開けでもあった。
寛斎は好むと好まざるとにかかわらず、この悲惨な戦傷病者を手当するスキルを身に付けて行ったのであるが、のちに赤十字の先駆けとなるような野戦病院の運用法も獲得した。
また西郷隆盛との出会いも彼の人生を大きく変えていくものとなった。
「十勝の活性化を考える会」会員 K