十勝の活性化を考える会

     
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アイヌ神謡集:知里幸恵さんのこと 金田一京助

2020-06-09 05:00:00 | 投稿

知里幸恵さんのこと


金田一京助


 知里幸恵さんは石狩の近文のに住むアイヌの娘さんです.故郷は胆振の室蘭線に温泉で著名な登別で,そこの豪族ハエプト翁の孫女と生れたのです.お父さんの知里高吉さんは発明な進歩的な人だったので,早く時勢を洞察し,率先して旧習を改め,鋭意新文明の吸収に力められましたから,幸恵さんは幼い時から,そう云う空気の中に育ちました.その母系は,幌別村の大酋長で有名なカンナリ翁を祖翁とし,生みのお母さんは,姉さん〔金成マツ〕と一緒に早く函館へ出で,英人ネトルシプ師の伝道学校に修学し,日本語や日本文はもちろんの事,ローマ字や英語の知識をも得,ことに敬虔なクリスチャンとして種族きっての立派な婦人です.その人々をお母さんと伯母さんに持った幸恵さんは,信者の子と生れて信者の家庭に育ち,父祖伝来の信仰深い種族的情操をこれによって純化し,深化し,ここに美しい信仰の実を結び,全同胞の上に振りかかる逆運と,目に余る不幸の中に素直な魂を護って清い涙ぐましい祈りの生活をつづけて二十年になりました.
 唯々「この人にしてこの病あり」と歎かわしいのは心臓に遺伝的な固疾をもって,か弱く生い立たれたことです.それに近文のから,旭川の町の女子職業学校へ通う一里余りの道は朝朝遅れまいと急ぎ足で通う少女の脚には余りに遠過ぎました.その為,なおさら心臓を悪くして大事な卒業の三学年は病褥の上に大半を過しました.それでも在校中は副級長に選まれたり,抜群の成績を贏ち得て,和人のお嬢さん達の中に唯々ひとりのアイヌ乙女の誇を立派に持ちつづけました.
 幸恵さんの標準語に堪能なことは,とても地方出のお嬢さん方では及びもつかない位です.すらすらと淀みなく出るその優麗な文章に至っては,学校でも讃歎の的となったもので,ただに美しく優れているのみではなく,その正確さ,どんな文法的な過誤をも見出すことが出来ません.しかも幸恵さんは,その母語にも亦同じ程度にあるいはそれ以上に堪能なのです.今度そのに伝わる口碑の神謡を発音どおり厳密にローマ字で書き綴り,それに自分で日本語の口語訳を施したアイス神謡集を公刊することになりました.幸恵さんのこの方面の造詣は主として御祖母さんに負うらしく,父方の御祖母さんも母方の御祖母さんも,揃いも揃って種族的叙事詩の優秀な伝承者であるのです.
 すべてを有りの儘に肯定して一切を神様にお任せした幸恵さんも,さすがに幾千年の伝統をもつ美しい父祖の言葉と伝とを,このまま亡滅に委することは忍びがたい哀苦となったのです.か弱い婦女子の一生を捧げて過去幾百千万の同族をはぐくんだこの言葉と伝説とを,一管の筆に危く伝え残して種族の存在を永遠に記念しようと決心した乙女心こそ美しくもけなげなものではありませんか.『アイヌ神謡集』はほんの第一集に過ぎません.今後ともたとい家庭の人となっても,生涯の事業として命のかぎりこの仕事を続けて行くと云って居られます.


  大正十一年七月十五日


 今雑司ヶ谷の奥,一むらの椎の木立の下に,大正十一年九月十九日,行年二十歳,知里幸恵之墓と刻んだ一基の墓石が立っている.幸恵さんは遂にその宿病の為に東京の寓で亡くなられたのである.しかもその日まで于を放さなかった本書の原稿はこうして幸恵さんの絶筆となった.種族内のその人の手に成るアイヌ語の唯一のこの記録はどんな意味からも,とこしえの宝玉である.唯この宝玉をば神様が惜んでたった一粒しか我々に恵まれなかった,

大正十二年七月十四日京助追記


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


きんだいち きょうすけ
金田一 京助


Kyosuke Kindaichi blownup.jpg
生誕 1882年5月5日
職業 言語学者

『金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者、民俗学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。東京帝国大学より文学博士。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。

アイヌ語研究へ
第二高等学校を経て1904年(明治37年)9月、東京帝国大学文科大学に入学、上京。新村出や上田万年の講義に魅かれ、言語学科に進学。1年先輩に橋本進吉、小倉進平、伊波普猷がいた。小倉は朝鮮語、伊波は琉球語を研究していたが、アイヌ語は日本人研究者がおらず、イギリス人宣教師のジョン・バチェラーによってアイヌ語辞典が出版されていた。上田から「アイヌ語研究は日本の学者の使命だ」と言われ、東北出身の京助はアイヌ語を研究テーマに選ぶ。1906年(明治39年)初めて北海道に渡り、アイヌ語の採集を行う。旅費70円を出したのは伯父の勝定だった。この調査で京助は研究に自信をつける。1907年(明治40年)サハリンのオチョポッカで樺太アイヌ語の調査をする。アイヌの子供たちを通じて樺太アイヌ語を教わったエピソードはこのときのことであり、のちに随筆『心の小径』で有名になった。旅費は、勝定から100円、上田から100円の計200円もの大金を使ったが、40日の滞在で文法や4000の語彙の採集に成功、その帰り、京助は生活の心配という迷いを断ち切り、アイヌ語の道を進むことを決意する。

1918年(大正7年)北海道調査旅行中に金成マツ宅で知里幸恵と知り合う。「ユーカラは値打ちのあるものなのか」と問う幸恵に京助は貴重な文学だと熱っぽく説いた。アイヌ語と日本語に堪能な幸恵を女学校卒業後に東京に呼ぶことを考え、ノートを送ってユーカラのローマ字筆録を勧めた。幸恵は持病の心臓病が思わしくなかったが、1922年(大正11年)5月に上京、京助宅に寄寓する。幸恵のノートをもとに『アイヌ神謡集』出版の話が進んでいた。京助は今までわからなかったアイヌ語の文法を幸恵に解説してもらい、「頭脳の良さ、語学の天才」「天使のような女性」と絶賛した。このころ、京助の妻の静江は生活苦や相次ぐ子供の死から精神を病んでおり、四女の若葉を幸恵が世話することもあった。静江の姉が引き取って離婚させる話も出ていたが京助は「とんでもない。私がもらったんだから」と一蹴、妻に対する心配りはなかった。幸恵は『アイヌ神謡集』を書き上げ、9月18日、19歳3か月の短い生涯を閉じた。
(中略)

人物
生涯に渡り貧しい生活に耐えながら、金田一は石川啄木を支援し、また、アイヌ語の研究に一生を捧げた。しかし、第二次世界大戦後はアイヌの同化政策に協力したとして批判を受けた。最近になり再評価が進み、孫に当たる金田一秀穂は、京助がいなければアイヌ語は残らなかったかもしれないと語っている。

当時はアイヌ民族は和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、金田一は「アイヌは偉大な民族だ」「あなた方の文化は、決して劣ったものなどではない」と真摯に接した。一方で次のようにも書いている。

「しかしまた、それはそれとして、同学の人たちがみんな、りっぱな西洋文学へ入っていったり、西洋の哲学とか、日本の哲学とか、そういう高い思想をたどって、自分自身をつくりあげているとき、自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました。」「金田一京助 私の歩いてきた道」(日本図書センター、1997年2月25日、52頁~55頁)

「自分がひとり、未開人の世界へ後もどりをして、蒙昧な、低級文化の中にいつまでも、いつまでも、さまよつて暮らすのかと、さびしさが込み上げる」(「私の仕事」、1954年)

また、アイヌはアイヌ語を捨てて帝国日本の言語である国語へと同化すべきとも考えており、決してアイヌへの偏見が皆無だったわけではないと言う主張もある。』

「十勝の活性化を考える会」会員 K

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