“障害を抱えて”、分かったことがたくさんある。負け惜しみでないが、今までに知らなかった世界を知ったことである。障害をあえて抱えようとは思わないが、障害を抱えて人間としての幅が広がったように思っている。
視覚障害者が北海道新聞の「ひと」の欄に、子供から大人まで幅広い層に分かってもらうために「みえなくても みえるんだよ こころで みているよ」「かわいそうだと おもわないで」とシンプルな言葉で心境を表わしていた。
8年前、神奈川県相模原市での知的障害者殺傷事件を覚えているだろうか。入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺傷事件である。犯人は、「障害者なんていなくなってしまえ」という持論を供述していた。
一方、識者からは、「生きる価値は障害者も健常者も変わらないことを、社会は理解すべきだ」との声が出されていた。日本社会は、表立ってはいないが「優生思想」で命の選別が始まっているのではないだろうか。生産性がない人間は、抹殺しても構わないような図式になっている気がしてならない。
更に言えば、そういったことに日本社会が、それほど怒っていない印象すら受けるのである。多くの人間の命を犠牲にして幸福を手に入れることが、すばらしい人生であるとは思えない。ウクライナ戦争を見ていて、つくづく思っている。
私たちは宇宙の力によって生かされているのであって、今の社会はそんな単純なことを忘れてはいないだろうか。新型コロナの命の選別である“トリアージ”とは、まったく違うのである。
しかし、権力を手に入れた人間は往々にして、現状維持で法律などについて再考しようとしない。人間にはヒエラルキー(階層、階級)があり、正義が勝つという保証もないことである。
これらを考慮すると、次のように考えることができよう。「正義」は社会的な権力関係によって、いかようにでも恣意的に変えることができ、不安定なものであるということである。だから人間は、共生社会を創るべく他人に関心や共感を持ち、愛情を注ぐことが大切であり、正義や真理は世の中が変わってもひとつしかないのである。
「十勝の活性化を考える会」会員