明治31年 十勝川未曽有の大洪水
記録によると明治31年(1898年)十勝川水系で大洪水が起き、開拓民やアイヌの人たちに壊滅的な被害をもたらしたとあります。燐寸工場の社員が逃げ遅れたという事は、大浸水が避難する時間的余裕もなく襲ってきたことをうかがわせます。
奇妙な点は当時の最大水深が八尺から一丈三、四尺(3m~5m)と記録されており、帯広市公表のハザードマップの浸水予想と一致している点であります。まさか浸水予想の根拠がこれにあるはずはないと思いますが、千年に一度の災害に備えて作成されたとされるハザードマップは、近年の異常気象を考えると甘い予想に思えてなりません。
https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/bousai/kouzuinenpyou/ctll1r0000001m1c.html
明治31年9月1日より雨模様となり、7日まで連日の豪雨、そして十勝川をはじめその水系の中小河川が全て氾濫し、開拓者の入植間もない十勝原野は、一大湖沼の下に埋没した。
帯広の雨量106mmに達する。十勝流域の死者21人、溺死馬90頭、倒壊流出家屋は511戸にのぼるという有様であった。
『十勝川洪水年表より』
明治31年9月5日~8日
明治三十一年九月、全道的な大洪水が発生、十勝では河西・河東・川上・中川の四郡の被害が多かった。雨は一日からほとんど連続して降り続いたが、七日には暴風雨となった。七日夜半から川の水量が増し、十勝・帯広・売買・札内・音更・士幌・然別・美生・芽室・佐幌などの各川は、八尺から一丈三、四尺という増水を見た。氾濫区域は、十勝川本流が両岸から各十丁、他の川は二、三丁から四、五丁であった。この程度では十勝国のごく一部にすぎないが、開拓移民やアイヌ住家の多くは川沿いの低湿地帯にあったため、住民の七割以上が被害をこうむった。十勝川と帯広川の中間にあった伏古村は、村内を支流のライベツとフシコベツの二川があったため西部高丘地を除くほかは大部分が泥水に飲まれた。フシコペツのアイヌ五十二戸はいち早く危険をさとり高丘地に逃れたが、三家族十三人が取り残され孤立した。これをイトマップ、チウトレン、アイヤニの三人が丸木舟で救助した。
ライベツ中島の四十七戸は全滅を心配されたが上流に停滞した流木が水勢を押える効果を果し、人畜に被害はなかった。下帯広村は、七日夜十時すぎになって氾濫、帯広川と札内川が一帯となった。八日午前十時には、十勝川以南、、帯広市街六丁目線まで水びたしになった。夜半のことで避難にはかなり混乱をきたしたが、死傷者はなかった。十勝全体の被害は溺死二・家屋流失四十七・倒潰三十七・床上浸水七百五十九・床下浸水百二十六・道路の欠壊三十一・橋の流失十八・家畜の溺死二十二・畑浸水六百八町四反。
下帯広村と伏古村の被害は、家屋流失十四・倒潰十六・床上浸水二百九十九・床下浸水二十九・道路欠損三・橋の流失五・家畜溺死八・畑浸水三百四町八反となっている。この年の十二月、二ペソツ岳に泥土の大噴出があり、音更川と十勝川がこのために白濁するという異変があった。
河西郡幸震村は、幸震川・売買川並行して十勝川に注ぐ所の二川ありと雖も、他川に比し出水の量甚少なく、帯広・大津間の国道筋より上流は浸水浅、被害の度最も少なかりしが、中街道を横断する幸震川に架したる私設橋梁栗山橋は七日正午十二時ころ流木の為めに破壊せられ、人馬交通を壮絶せり。該橋梁より下流、十勝川の間、河水十勝川の奔流に遮られ逆流せしを以て、安木燐寸製軸所及其附近三四の人家水中に浸され、避難に後れ屋上にて救護を求むるものは、高地に居住する土人アントマツ(女)ツウプトフイノ(男)アシノマツ(女)カイキマツ(女)シマキアイノ(男)チャマート(男)イタコーラン(男)の七人甚危態に迫るを見て、独木舟二艘出だし激流を操縦漕行して、安木燐寸製軸所より二十二人、其隣家より二人、増田伊吉家七人を救助せり。
同三十七年秋にも十勝川が氾濫、伏古中島では床上五尺の浸水をみたが他の地域では大きな被害を出さなかった。この時、十勝川の本流がライベツ川筋に移動した。
明治四十二年五月十日、融雪出水のため十勝流域のほぼ全域が冠水した。このほか明治年代には四十三年八月十六日、四十四年八月十八日、四十五年九月二十五日と毎年のように水害に見舞われ、大正に入ってからも水害は続いた。
『帯広市史』
十勝の活性化を考える会 会員K