十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

“知里幸恵”の映画化

2022-06-03 05:00:00 | 投稿

 

知里幸恵が映画化される。映画「カムイのうた」は来年秋の公開を予定していて、ことし7月から大雪山旭岳や幸恵の出身地の登別市などで撮影が行われる。1903年(明治36)生まれの知里幸恵は、北海道登別市出身のアイヌ女性で、上川第五尋常小学校を卒業し、上川第三尋常高等科へ進んだ。さらに、旭川区立女子職業学校に進学したので、かなり優秀であった。つまり、アイヌ語も日本語も極めて上手であったのである。

19年間という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ文化の復活をもたらしたことで知られている。彼女は東京の金田一京助氏の自宅に4カ月あまり寄宿していたが、重度の心臓病をかかえ『アイヌ神謡集』を書いていた。

その著は、1922年(大正11年)9月18日に完成したが、その日の夜に心臓発作のため死去している。『アイヌ神謡集』は、まさに、命と引き換えの作品であったのである。『アイヌ神謡集』は出版直後から大反響で、次のとおりである。

 『 その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に時代の寵児、何という幸福な人たちであったでしょう。 (中略)

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく発展していく。

激しい競争場裡に敗残の醜さをさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強い者が出てきたら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがて来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明け暮れ祈っていることで御座います。

けれど、愛する私たちの先祖が起き伏す日頃、互いに意を通ずるために用いた多くの言葉、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消え失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい、名残惜しいことで御座います。

アイヌに生まれ、アイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇あるごとにむち打って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中、極く小さな話の一つ二つを拙い筆に書き連ねました。

私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事ができますならば、私は、私の同族祖先と共に本当に無限の喜び、無上の幸福に存じます。』

知里幸恵はこの本の中で、「おお亡びゆくもの、それは私たちの名、何という悲しい名前を私たちは持っているのでしょう」と書いている。何という辛く悲しい歴史がアイヌ民族に潜んでおり、日本人の一人として心苦しい限りである。

ところで、知里幸恵は三人兄弟で、“知里真志保”という弟がいた。彼は、北海道登別市に生まれ一高(現在の東京大学)を卒業している。彼の略歴は、以下のとおりである。

<略歴>

・1909年:登別市の登別本町にて誕生

・1021年:登別尋常小学校卒業

・1923年:登別尋常高等科卒業

・1933年:第一高等学校(現在の東京大学)卒業

・1943年:病気を理由に、豊原高等女学校依願退職(34歳)

・1947年:北海道帝国大学法文学部講師嘱託就任

・1950年:北海道大学文学部講師発令

・1955年:『分類アイヌ語辞典』出版

・1958年:北海道大学教授発令(49歳)

・1961年:心不全で死去(52歳)

知里真志保には3回の結婚歴があるので、自分に厳しく伴侶にも厳しい人でなかったかと思う。ただ、彼を知る樺太の豊原高等女学校の教え子たちには、優しい先生だったらしい。

知里真志保は52歳の若さで死んでいるが、分類アイヌ語辞典のほか多く本を書いている。 “アイヌ系日本人”という言葉も、彼が初めて使った。彼は、“帯広”の語源を表しているアイヌ語の“オペレペレケプの解釈についても、独自の解釈を展開している。

「十勝の活性化を考える会」会員