さてさて、本日は開宗宣言からです・・・。
一気に行きますよ~!!
1253年(建長5年)32歳
4月28日、清澄寺に帰り、「救いの道は法華経にある」と立教開宗を宣言。
同時に名を「日蓮」と改める。
人々は驚き、清澄寺の大壇越(施主)で熱心な念仏信徒であった地頭「東条景信」は激しく怒り、日蓮を捕らえるよう命令した。
その為、師の道善房から勘当され、清澄寺にはいられなくなった日蓮は、鎌倉に逃れ、松葉谷に草庵を結ぶ。
1256年(康元元年)35歳
このころから鎌倉で辻説法を行なう。富木常忍・池上宗仲ら有力武士が信徒となり、日蓮一門が形成される。
翌年、大地震が起こり、その惨状を目のあたりにする。
1258年(正嘉2年)37歳
飢饉・疫病が相次ぎ、社会不安が広がった。度重なる天災の原因を調べる為、駿河国(静岡県)岩本実相寺の経蔵にこもる。その結果、災いは仏法の誤りにあると確信。
1260年(文応元年)39歳
7月、執権北条時頼に「立正安国論」を献上し、「「法華経」こそ末法の世を救う。」と説いて改宗を迫る。
念仏信徒らの怒りをかい、8月27日、草庵を焼き討ちにされる。(松葉谷法難)
1261年(弘長元年)40歳
下総国(千葉県)の富木常忍のところへ難を避けるが、再び鎌倉で布教を再開するや幕府に捕らえられ、5月12日、鎌倉由比ヶ浜から伊豆国(静岡県)伊東へ流される。(伊豆法難)
1264年(文永元年)43歳
流罪を許され、鎌倉に戻った翌年、母の見舞いの為故郷へ。11月11日、景信ら念仏信徒の襲撃に遭う。弟子を殺され、眉間に傷を受けたが、一命をとりとめる。
1268年(文永5年)47歳
蒙古の使者が来日したこの年、自分の予言が的中したとして、執権北条時宗に再び「立正安国論」献上。幕府や他宗の代表11ヶ所に書状を送り、公場討論を促した。
1271年(文永8年)50歳
9月12日、逮捕され、佐渡流罪と決まるが、密かに途中の龍口で処刑されることになっていた。首を切られる寸前、対岸の江ノ島から光るものが現れ、死刑は中止となる。
1272年(文永9年)51歳
佐渡では最初、墓地のそばに建つ塚原三昧堂で周辺の念仏信徒と法論を戦わす日々をすごし、「開目抄」を著す。
翌年、一谷に移り、「観心本尊抄」を著述。大曼荼羅本尊を書く。
1274年(文永11年)53歳
佐渡流罪を許され、時宗から蒙古調伏の祈祷を要請されるが断り、甲斐国(山梨県)波木井郷に向かう。
身延山中の庵に隠棲する。蒙古が来襲し、文永の役起こる。
1275年(建治元年)54歳
波乱の半生を振り返り、「撰時抄」を著す。翌年幼い頃に師事した道禅房の死去に接し「報恩抄」を著述。
弟子達は供物や書状を運び、「法華経」の修行に励んだ。
1277年(建治3年)56歳
頑強な身体も酷使を続けたため病に倒れる。とくに身延での寒冷に耐える日々は心身を衰弱させた。しかし、この頃身延に住む門弟は総勢60人を数えるようになっていた。
1281年(弘安4年)60歳
蒙古が再び来襲し、弘安の役が起こる。病気が再発し、重態になるが、ひとまず落ち着く。
11月に大坊が完成し、開道の供養が行なわれる。日蓮はこの坊を「久遠時」と名づけた。
1282年(弘安5年)61歳
湯治のため常陸国(茨城県)に向かうが、武蔵国(東京都)の池上邸に到着後、本弟子六人を定め、10月13日入滅。
このとき、地震が起こり、季節外れの桜が咲いたという。
と、まあ、ざっと日蓮の生い立ちはこんなところです。
明日はもう少しほりさげて勉強しますね。
一気に行きますよ~!!
1253年(建長5年)32歳
4月28日、清澄寺に帰り、「救いの道は法華経にある」と立教開宗を宣言。
同時に名を「日蓮」と改める。
人々は驚き、清澄寺の大壇越(施主)で熱心な念仏信徒であった地頭「東条景信」は激しく怒り、日蓮を捕らえるよう命令した。
その為、師の道善房から勘当され、清澄寺にはいられなくなった日蓮は、鎌倉に逃れ、松葉谷に草庵を結ぶ。
1256年(康元元年)35歳
このころから鎌倉で辻説法を行なう。富木常忍・池上宗仲ら有力武士が信徒となり、日蓮一門が形成される。
翌年、大地震が起こり、その惨状を目のあたりにする。
1258年(正嘉2年)37歳
飢饉・疫病が相次ぎ、社会不安が広がった。度重なる天災の原因を調べる為、駿河国(静岡県)岩本実相寺の経蔵にこもる。その結果、災いは仏法の誤りにあると確信。
1260年(文応元年)39歳
7月、執権北条時頼に「立正安国論」を献上し、「「法華経」こそ末法の世を救う。」と説いて改宗を迫る。
念仏信徒らの怒りをかい、8月27日、草庵を焼き討ちにされる。(松葉谷法難)
1261年(弘長元年)40歳
下総国(千葉県)の富木常忍のところへ難を避けるが、再び鎌倉で布教を再開するや幕府に捕らえられ、5月12日、鎌倉由比ヶ浜から伊豆国(静岡県)伊東へ流される。(伊豆法難)
1264年(文永元年)43歳
流罪を許され、鎌倉に戻った翌年、母の見舞いの為故郷へ。11月11日、景信ら念仏信徒の襲撃に遭う。弟子を殺され、眉間に傷を受けたが、一命をとりとめる。
1268年(文永5年)47歳
蒙古の使者が来日したこの年、自分の予言が的中したとして、執権北条時宗に再び「立正安国論」献上。幕府や他宗の代表11ヶ所に書状を送り、公場討論を促した。
1271年(文永8年)50歳
9月12日、逮捕され、佐渡流罪と決まるが、密かに途中の龍口で処刑されることになっていた。首を切られる寸前、対岸の江ノ島から光るものが現れ、死刑は中止となる。
1272年(文永9年)51歳
佐渡では最初、墓地のそばに建つ塚原三昧堂で周辺の念仏信徒と法論を戦わす日々をすごし、「開目抄」を著す。
翌年、一谷に移り、「観心本尊抄」を著述。大曼荼羅本尊を書く。
1274年(文永11年)53歳
佐渡流罪を許され、時宗から蒙古調伏の祈祷を要請されるが断り、甲斐国(山梨県)波木井郷に向かう。
身延山中の庵に隠棲する。蒙古が来襲し、文永の役起こる。
1275年(建治元年)54歳
波乱の半生を振り返り、「撰時抄」を著す。翌年幼い頃に師事した道禅房の死去に接し「報恩抄」を著述。
弟子達は供物や書状を運び、「法華経」の修行に励んだ。
1277年(建治3年)56歳
頑強な身体も酷使を続けたため病に倒れる。とくに身延での寒冷に耐える日々は心身を衰弱させた。しかし、この頃身延に住む門弟は総勢60人を数えるようになっていた。
1281年(弘安4年)60歳
蒙古が再び来襲し、弘安の役が起こる。病気が再発し、重態になるが、ひとまず落ち着く。
11月に大坊が完成し、開道の供養が行なわれる。日蓮はこの坊を「久遠時」と名づけた。
1282年(弘安5年)61歳
湯治のため常陸国(茨城県)に向かうが、武蔵国(東京都)の池上邸に到着後、本弟子六人を定め、10月13日入滅。
このとき、地震が起こり、季節外れの桜が咲いたという。
と、まあ、ざっと日蓮の生い立ちはこんなところです。
明日はもう少しほりさげて勉強しますね。