釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:弦楽四重奏曲第八番(ショスタコーヴィチ)

2013-05-21 14:32:43 | その他の雑談
なにしろ十五番まであるのだから、何番から聴いたらよいのか迷う。
CD全集には簡単な解説書があるが此れも、ほとんど読んでいない。以前ラジオを聴いていたら第八番が誰だかのリクエストで放送されていた。そこで第八番を聴く。

この曲は1960年夏に作曲され、献呈文には『ファシズムと戦争犠牲者の思い出に』と書かれている。私は音楽によらず芸術関連は解説書は読まないことにしているので、上記二つの事を知っただけで充分。後は聴いて自分なりの感想を頭にめぐらせばよいだけ。別に義務で聴いているわけではないのだから。

私は今まで生(なま)の演奏会は数度しか行ったことはない。その理由は要するに出不精だからだが、私の音楽的聴覚は生(なま)でもCDでも区別が付かない程度の雑なもの。だから、わざわざ演奏会まで足を運ぶのも面倒だし、それに私は人混みを好まない。私は音楽にしろ映画にしろ何にしろ私は一人で楽しむほうが気楽だし性(しょう)にあっている。

随分昔の話だが、私の友人からN響のチケットをもらったことがある。私はその頃は東京の家内の実家に住んでおり、演奏会場も近いし、友人の善意を無視するほど私は悪党でもないので、珍しくも出かけた。そのとき演奏会場で、実は私はショスタコーヴィチその人を見たのだった。演奏曲目はショスタコーヴィチの『森の歌』だったと記憶している。この曲が終了した直後、ショスタコーヴィチが舞台の袖に姿を少しの間見せた。

私は演奏会場の二階席の後方だったのでショスタコーヴィチの詳細な姿は判別できなかったが、かなり老齢だとは分った。恐らく最後の来日だったのだろう。

歴史上の人物で、その生(なま)の姿を目撃できたのは私はショスタコーヴィチだけである。
歴史上の人物で、その生(なま)の姿を見たいと思う人物は私は森鴎外と織田信長である。遠くからでも眺めてみたい気がする。

音楽の感想を書きたいのだが、残念ながら私は、その語彙を知らない。だから、こんな雑文だけになる。情けない話である。尤も、ショスタコーヴィチの音楽の感想を無理して文章化する必要はない。なにかの暗喩として書けるかもしれないが、少なくとも今は其の気にはなれない。