釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:音楽指揮者:コバケン(小林研一郎)

2013-04-16 12:04:43 | その他の雑談
どうも雑談ばかり続く。本題の釋超空の歌から外れるが、まぁ、いいか。
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私はクラシック音楽は人並みに好きなので、TV・BSプレミアムで放送されている『クラシック倶楽部』やN饗コンサート等は、かたっぱしから録画している。気が向いたとき、それを再生して聴いている。音楽に一言持っている人は言わせれば、テレビでクラシック音楽を聴くなど、もってのほか! だろうが、私はゼンゼン気にしていない。

しかし、TV機器の音声だけでは、音質は、さすがに貧弱だから、昔むかし買ったアンプとスピーカーを通して聴いている。そのアンプにしてもスピーカーにしても安物であったが、私はそれで充分である。  車は一応走ればよいし、音楽も一応聴ければよい・・・私は、その類の人である。

TVでの音楽視聴の一つの特徴は、指揮者の姿が観客席の反対側から、つまり演奏者側から (大相撲中継で言えば、向こう正面から) 写され、指揮者の指揮ぶりが見えることである。ときには指揮者の顔がクローズアップされたりする。指揮者の中には汗水たらして、その汗を周囲に振りまいている人もいたりする。近くの演奏者には迷惑だろうと私は同情する。クラシック音楽を聴く場合、このような音楽以外のモノは邪魔に違いないが、しかし反面、いろいろと面白い場合もある。

何日前だったか放送された或るコンサートの録画を昨日みた。指揮者はコバケン(小林研一郎)であった。私には久しぶりのコバケンだった。このコンサートの最後の曲目はチャイコフスキーの交響曲6番『悲愴』であった。コバケンの指揮時の顔等が時折写しだされた。以下、大変失礼な言い方になるが、「おかめ」が笑ったような泣いたような、コバケンの顔が大変面白かった。この『悲愴』の第一楽章の或る箇所では、今にも泣き崩れるのではないかと私は心配したほどであった。

コバケンは、各楽章の演奏の終わるたびに、黙想するかのように胸て手をあて、演奏者(東京フィルハーモニー交響楽団)に向かって、少し頭を下げ、「ありがとうございます」と言っているのが彼の唇の動きから私は判った。ここらあたりが、この人の人柄が表れているのだろう。コバケンと親しまれている理由が分かる。

大げさな身振り手振りで指揮棒を振り回すタイプの指揮者は私は興ざめて好まないが、このコバケンの指揮は、そのタイプの指揮ではあるが、私は彼だけは興ざめない。楽しいのだ。 随分昔の話になるが、彼はコンサートの終わりのアンコールに応じて、何だったか威勢のよい行進曲を披露した。そのとき彼は体を観客のほうに向けて、例の愛嬌のある顔を崩さんばかりに笑いながら、指揮棒を振っていた。気持ちのよいサービスであった。
今回のコンサートのアンコールでスコットランド民謡の「アニーローリー」が演奏されたのですが、とても良かった。

こんなことを書いていると、いかにも私は指揮者に詳しく見えるだろうが、私は決して詳しくはない。少しばかりの人を知っているだけである。その中の一人がカラヤンだが、私はカラヤンの指揮の姿が私は好きだった。 目をつぶって、手を前法に差し出し、曲相にあわせて、その手を静かに動かす。体は動きはほとんどなかった。

指揮者の中には、跳んだり、はねたり、さながら指揮台の上で運動会をしているような人もいる。リハーサルは充分行っているはずだから、本番での指揮者の仕事は、ほぼ終了しているのだろうから、そのように本番でのパフォーマンスは不要なはず。

また、演奏が終わった直後に、よく聞かれる観客者の「雄叫び」も曲見によっては興ざめなものだ。私は原則として聴いている曲が終了したら、即、offにする。これもTV視聴の利点である。