碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

「沈黙の艦隊」かわぐちかいじ

2012-11-24 21:22:02 | 詩、漢詩、その他読書感想
尖閣問題が起きて、国家間の思惑の交錯がどのように展開していくのか、注目せざるを得ないようなことになっておりますが、我々国民は政府の情報の1/100でも得られているのか疑問です。ただただ、マスコミの報道と政府の発表の行間を埋め、推理するより方法はないのです。何が真実であるかは、後日(何十年も先)にならないと分からないのです。したがって、現在の状況に先入観をもって見てしまうとあとで手痛い目に会うことになるかもしれません。反中反米の石原慎太郎が実はアメリカの国益CIAのお先棒をかついでいたということもありうるし、(なんでアメリカで国有化を発表しなければならないのか)中国の指導部は実は、石原慎太郎が頑張っているほうがありがたいと思っているかもしれません。まあ、ワシとしては、推理小説的な憶測しかできないのですが、登場人物にロクな役者がいないのが悲しいのです。橋本市長も時代の子で、視聴率ばかりが優先しているような振る舞いで、芸風が浅いのです。それで、ふと思い出したのが漫画「沈黙の艦隊」の海江田艦長なんですね。漫画の話で恐縮ですが、そしたら、先日、吉本隆明著『全マンガ論』を読んでおりましたところ、この「沈黙の艦隊」についての批評が載っていたのです。 <「沈黙の戦艦」の世界は劇画として三島由紀夫の行動思想と同じ世界をつくりだしている。この魅力は抗しがたいほど大きい。 海江田艦長の理念つまりは作者のかわぐちかいじの理念が述べられているが、わたしなら(吉本)人間の尊厳と国家の尊厳とは、とことんまで問い詰めていけば両立しないと思っている。だから人間の尊厳が第一で、これが実現するためには、国家は緩やかに開かれ、やがてなくなっていくようにもっていくほかないと考える。また人間の完全な自立と民族の完全な自立も、最後には両立しないとおもう。だから、完全な自立が実現されるためには、民族と言う概念も、民族の自立と言う概念も捨て去るよりほかないと思っている。その意味では、海江田を艦長とする独立国家「やまと」の国家理念は駄目だろうと思う。アメリカやソ連のような時代遅れの国家を私(吉本)は武力ではねかえし、撃滅するという力も発想も無いが、理念でもって撃滅したいといつでも考えている。ある意味では原潜「やまと」を象徴的な暗喩として、自分の理念が象徴されているようで、とても愉しかった。> 戦中派の彼の意見としては、結構心情的に感じるものがあるのですね。帝国軍人の最も良質な心情に打たれるとまでいい切っております。ワシら戦後派で軍隊のぐの字も知らない者が読んでも、面白い、惹きつけられるのです。それはなぜかというと、生まれる前からある日米の軍事同盟、やソ連との冷戦や、自衛隊という出自の曖昧な軍隊とか、民主主義と国家とかその他のいわば政治的な枠組みが一挙に崩れる開放感にあるのではないかと思うのです。現在の政治状況での閉塞感を漫画に求めるのは筋違いだという人もいるかもしれませんが、この漫画の持つ魅力が今の情況になぜか通じ合うような気がしてならないのです。橋本市長が海江田艦長だと言うつもりは毛頭ありませんが、何が変わったかというと、吉本はこの著書の縮合論の中で現在の表現の質の変化を指摘している。 <現在伝統的な表現の世界が高度なもの価値あるものとみなしてきたものが、高度なもの、価値あるものだと決定できなくなってきた。こういう疑いは、主体や主観の側からの価値の転倒の意義としてならば、民俗学や人類学や理念のうえでのポピュリズムの形でいままでさまざまに提示されてきた。いまもまた提示されている。いまここでとりあげられていることは、それとはまったくちがうことだ。主観や主体の側にではなく、世界の側に指標の転倒の意義があらわれているようにみえる。高度なもの価値あるものといういい方と同じように、低俗なもの、価値ないものという言い方もまた、防御や猶予に属している。どんな外側の力が加わったにしても、重心が半ばを過ぎて上方に移動すればその世界は転倒してしまう。表現が差異であり、土台が同一性であるような縮合の世界は、現在すこしずつその気運にであいつつあるようにみえる。これは価値の転倒ではなく、重心の移動によるこの世界の転倒なのだ。> この指摘は政治的言語表現においても言えるのではないか、「文芸春秋」や「中央公論」や「世界」やその他の報道マスメディアの言語の質を誰が信用しているのか?まして政治家の言説においておや、何をか言わん。という情況変化のなかで、解体されていくのは政治的枠組みだけではない。主体の側の表現の質も問われている。いわゆる「左翼」が沈黙を余儀なくされているのは、そのことに気づいているからか、あるいはまだ気づいていないからかわかりませんが、彼らの表現が存在の中心へ直接届くような、質をもはや持ち合わせていないことは明白です。昔のことですが「三島由紀夫」の自死と「沈黙の艦隊」に心を動かされた奴は信用できないということを聞いた覚えがあります。ある意味それは理解できるのですが、少なくとも表現の質においては当てはまらないと思う。漫画のはなしですから低俗で「文芸春秋」だから高級ということはありません。いまやその世界の重心は移動しております。てなことを、「全マンガ論」から感じたのですが、折しも、「千夜千冊」でも同じタイミングで、かわぐちかいじ「沈黙の艦隊」を紹介しておりまして、考えることは同じだなぁとほくそ笑んだのです。読んでない人は参考にクリックしてみて下さい。もちろん松岡正剛と同じだというつもりはありません。。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« パソコンを買いました | トップ | 開高丼飯 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

詩、漢詩、その他読書感想」カテゴリの最新記事