
「すべてこの世はひとつの舞台、そして人はみな役者にほかならぬ」・・シェークスピア作『お気に召すまま』のせりふです。あなたもワシも何かの役を演じているというわけです。そういう自覚があるかないかは人それぞれでしょうが、役者であり、作者であるシェークスピアの立場からみれば、すべては舞台であり役者であるという認識は、むべなるかなと思うわけです。役を演じる自分と素の自分という見方は、現実(役を演じる自己)と自己(素の自己)の間に乖離があることを認めているわけです。この分裂症的な認識はどこから来るのかというのは、興味深いのですが、心理的なコンプレックスや心的外傷の影響があるのではないかとにらんでいるのです。役と自己が一致しているのは、少年期までで、それ以降はワシみたいにリタイア後の年金生活に入った時が、一致とはいかないまでも近づいたときではないかと最近思うのです。しかしここでは深入りはしない。一般に役者を目指す人は変身願望が強いと思っています。心理的には、ストレートには通じない自己主張の代償行為として、ある役を演じてしまうことをシェークスピアは見ていたと思うのです。その場合、その役を選んだのか、あるいはその役を信じたのかによって、世界(舞台)というものにに対する見方が違ってくると思うのです。ちなみに、シェークスピアは、せりふのなかで役について述べている。ひとの一生を7つの役に分けている。引用すると
全世界がひとつの舞台、そして人間はみな役者にほかならぬ。
それぞれに出があり引っ込みがある。人は生涯にさまざまな役を演じ
その場割りは7つの時代に分れたる。
最初は赤ん坊時代、乳母に抱かれて泣いたり乳をもどしたり。
次は泣き虫小学生。カバンかかえて、朝日に顔をひからせながら、
カタツムリさながらいやいやのろのろ学校へ、
さてその次は恋人時代。ふいごのようにため息をつき、
思う女の眉を讃えて涙ながらの詩を作る。
やがて今度は兵隊時代。奇怪な誓いの言葉並べて、
ヒョウさながらの髭生やし、やたら名誉を気にかけて、
むやみに喧嘩に手が早く、泡のごとき名声求めて大砲の筒先まで突進する。
次なる役は裁判官。上等の鶏肉を詰め込んで腹は見事な太鼓腹。
眼光鋭く、髭いかめしく、終始口にするのは賢者めかした格言と陳腐な判例
こうしてお役を勤め上げる。さて舞台は変わって第六場は
痩せこけてスリッパつっかけた老人役。鼻先にはめがね、脇には金袋ぶら下げ
大事にとっておいた若いころのズボンも今となっては、脛がしぼんであまりにダブダブ
男らしく太かった声もまた子供のような高い声に返ってヒューヒュー笛のごとき音だすばかり。
さていよいよ、この奇怪にして波乱に満ちた一代記を締めくくる最後の幕は、
歯もなく目もなく、味もなく何もない無に帰るのみ。
これを彼の本音というふうにとらえれば、彼が彼の役を信じていたとはいえないような気がする。ワシもスリッパをつっかけた老人になりつつあるわけですが、人生の第四コーナーをまわると、見えてくるものがある。個人的なことで言うと、お前は役を選んだのか、その役を信じたのかと問われれば、YESでありNOである。
話の前振りが長いのですが、カズオ・イシグロ著『日の名残』を最近読んだのです。イギリスの貴族に仕えた執事の話です。貴族階級というのが厳然とあるイギリスの社会で、自分の価値がプロとしての執事というものにこだわることで自覚される主人公スティーブンスの内面をえがいている。仕えたご主人様を信じてきた人生に誇りを感じていたのですが、戦争の後にナチスドイツに協力したうたがいで、ご主人様は社会的に葬られ失意のうちに亡くなり、女中頭の女性との思いも伝えることができず、そのようなことにより自分の人生の意味について考えるのです、最後にウェイマスの夕方の桟橋の上で思わず涙を流すラストシーンが出てくる。スティーブンスは親子代々執事であり、ご主人を自らから選んだのではなく、ただ信じていたのです。ご主人を通して世界に参加し、微力ながら影響をあたえることができたと自負しておりました。それがプロとしての誇りでありました。仕事のためにはすべて私事を後回しにするのが彼の生き方でもありました。しかし、その誇りは幻であったと気がつく、私事(女中頭への思い)をないがしろしてはばからなかったことへの悔恨の思いがこみ上げてくるシーンです。一見これは日本のモーレツサラリーマンの悲劇とも読み取れるのですが、ワシはむしろ主人公スティーブンスが信じていたものに誇りを感じていたことが、たとえそれが幻となってしまっても、信じたことを悔いるのは違うと思うのです。たとえナチスの協力者という世間の評価が正しくとも、その時点で彼が正義だと信じ込むことは悔やむべきことではない。むしろ、信じる力を持っていた自己に出会ったことを可とするべきだと思うのです。「なにも信じないより、なにかを信じて傷つくほうがいい」という歌の文句があるけど、どちらかというと何も信じないほうであるワシから見れば信じただけ幸せであったと思うので、ひょっとしたら最後の涙はうれし涙かもしれないとひそかに考えております。しかしイギリス人のメンタリティーにおいてはそんな甘いもんじゃないのかもしれませんが。
蛇足ながら、シェークスピアは『テンペスト』のなかでこうも言っています。
「この地上にある一切のものは、結局は溶け去って、今消えうせた幻想と同様に、
あとには一片の浮雲も残しはしない。われわれ人間は夢と同じもので織りなされている
はかない一生の仕上げをするのは眠りなのだ。」と
つい、色即是空なんて句が出てきそうです。歳をとると物事を考えすぎる悪いくせがある。長考の末に打った手がいい手とは限らない。相変わらずわけのわからない文章ですがひらめくことが大事です。
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