中東断章

中東問題よこにらみ

1)富山のコーラン破棄にかかわるパキスタン人騒擾事件(2)

2007年05月23日 | 日本とイスラム
1)富山のコーラン破棄にかかわるパキスタン人騒擾事件(2)


 新聞やテレビは、この事件を、パキスタン人の宗教心の高さ、聖典コーランに対する思い入れの深さに対する賞賛、異郷の日本で働く少数者に対する同情、宗教心を踏みにじった犯人の心のなさに対する怒り、といった観点から、一貫して在日パキスタン人寄りの論調で報道した。

 これを受けて、大多数の日本人は、何よりも、単に聖典を破られたことで集団で怒り狂うイスラム教徒の宗教感情の深さに対して驚くとともに、何かそら恐ろしい気分にとらわれたのではないだろうか。われわれの多くは、自身の聖典をもっているどころか、何が聖典かもはっきり知らない状態である。それに対して、パキスタン人イスラム教徒の何とまあ敬虔なことよと、あっけにとられたことであろう。

 これにつけて思い出されるのは、9.11以降のアメリカとアフガニスタンやイラクとの戦争を通じて、米軍に捕まったイスラム教徒捕虜の尋問過程におけるいわゆるコーラン冒とく問題である。イスラム教徒の強い宗教感情につけ込んで、目の前でコーランを破ったり、小便をかけたりかけさせたり、トイレに流したりして捕虜を動揺させ、自白を促すという手段である。効果のほどは知るよしもないが、以前から実際に行われていたであろうことは、さまざまな証言から、間違いない。イスラム世界と交渉の深いヨーロッパ人から教えられたのかも知れない。

 最近では、05年5月、キューバのグアンタナモ米軍基地で、コーランがトイレに流されたことが報じられた。多くのイスラム国で抗議行動が起きたが、中でもアフガニスタンでは多数の学生らが「アメリカに死を」などと叫んでデモを起こし、暴動に発展、警官隊の銃撃を受けて学生ら6人が死亡、100人が負傷したという。隣国のパキスタンでも暴動が起きていた。それに対して、アラブ国では比較的静かな抗議行動であったようである。

 パキスタンやアフガニスタンでは特に反米感情、反西側感情が高まっているときであるという理由もあるであろうが、これらの国の国民、即イスラム教徒は、宗教的にどうしてこうも過激、攻撃的、また敢えて言えば狂信的なのであろうか。どうしてそこまでコーランにこだわるのであろうか。

 本来はイスラムの教理やそれぞれの国民性に踏み込んで解明を試みるべきところであるが、ここでは、一つの視点として、「ことば」をもとに考えてみたい。

 一口にイスラム教徒といっても、さまざまなことばを話す人びとがいる。まず預言者ムハンマド(マホメット)が話したのと同じアラビア語を話すアラビア人である。だいたい20カ国に2億人程度とされる。これ以外はすべて非アラビア人のイスラム教徒で、大所としては、ペルシャ語のイラン人、トルコ語のトルコ人、ウルドゥ語のパキスタン人、ベンガル語のバングラデシュ人等々であり、東の果てには最大数のイスラム教徒を抱えるインドネシア語のインドネシア人がいる。インドや中国にも少なからざる数のイスラム教徒がいる。このほか、もちろん、数多くのイスラム教徒少数民族がいて、それぞれのことばを話している。五十数カ国に十数億人のイスラム教徒がいるとされる。

 これらの言語的にも歴史的にも文化的にも多様な人たちが、イスラムを同じように理解し受け入れているかと言えば、そんなことはあり得ない。あり得ないにかかわらず、イスラムは、聖典コーランの徹底理解を求めるのである。その理解の上に立って、信徒としての生活、即ち六信五行の実行を求めるのである。

 ところで、コーランは、預言者ムハンマドが啓示を受けるままに、神(アラー)のことばとして周囲の人たちに語り聞かせ、それが後に文書として集大成されたものである。ムハンマドはアラビア語を母語とする人であり、アラビア語で語りかけた。そしてコーランはアラビア語で書かれており、アラビア語は神のことばである。

 さらに言えば、アラビア語は神の語ったことばであるが故に、アラビア語を通じてしか神の意を体することはできず、逆にアラビア語を通じてしか神にせまることはできない。

 ということは、「アラビア人にあらざるものは(アラビア語を母語としないものは、或いはアラビア語を徹底的に理解しないものは)、イスラム教徒にあらず」ということではないのか。「アラビア語を知らないイスラム教徒」というフレーズは、論理学で何か術語がありそうであるが、「丸い四角」というほどにおかしなことばで、恐らく預言者も予想しなかった事態ではないだろうか。コーランはアラビア語で書かれており、アラビア語は神のことばである、という一点にひっかかるのだ。

 非アラビア人のイスラム教徒の心にそのような不安が横切っても不思議ではない。イスラム教徒の最大の関心事である最後の審判もアラビア語で行われるはずだ。そのとき不利な扱いを受けないためには、非アラビア語教徒の彼あるいは彼女はどうしたらいいのか。アラビア語の勉強に向かうか。いくら勉強してもどうせアラビア人のようになれるわけがない。アラビア人のようになれなければイスラム教徒ではないのか。解決不能のどうどう巡りに陥ってしまう。

 そこで、非アラビア語モスレムは、たとえアラビア語は分からなくても、アラビア語のコーランをしっかり朗誦し、導師の教えをよく守って六信五行にはげめば、最後の審判をクリアして、天国に行くことができるだろう、と考えるほかなくなる。実は、これが非アラビア人モスレムが過激に走る根本的な理由のひとつなのだ。

 もっと端的に言えば、コーランをじかに読むことができるアラビア人は、言わば本家のイスラム教徒である。非アラビア人モスレムは、表現が難しいが、イスラム教的には二級信徒である。非アラビア人モスレムは、このことを常に肌で感じているため、逆に、何であれ反イスラム的なものやこと、特にイスラムに対する攻撃には過敏に、過剰に、また過激に反応してしまうのだ。イスラムの外からであると内からであるとを問わず、背教や冒とくと決めたものには、ことのほか厳しい。本家のモスレムに対して、或いは直接的にイスラムの神に対して、自分達はアラビア人信徒に劣らず、いやそれ以上に敬虔な信徒なのだということを行動で示し、心の中では自分達の二級信徒であることのコンプレックスを解消し、安心を得ているのである。

 このことは、本家のアラビア人イスラム教徒が二級信徒より温和であるとか寛容であるということを意味しない。アラビア人は、アラビア人で、自らのイスラムを守る「護教」のためには体を張って戦うのである。

 このようなことをパキスタン人やアフガン人に向かって言う必要もなければ、言うべきことでもない。しかし、われわれ外国人は、特にイスラムに対して知識も免疫もない日本人は、知っておく必要があるであろう。

 この「二級信徒」ということばに侮蔑の意味は含まれていないことに注意したい。それを言うなら、日本人の仏教徒はみんな二級信徒もいいところである。キリスト教徒もおなじである。しかし、教義の理解が心配になって、サンスクリットや古代のヘブライ語やギリシャ語の勉強を始める日本の仏教徒やキリスト教徒は、まあ、いない。宗教からの要請もない。ところが、イスラム教に限っては、アラビア語でなければダメだというのだ。翻訳は解釈であって、論外である。

 ここまでくると、言語を通じての理解と表現という面から、言語とは何かに始まって、二言語話者(バイリンガル)や多言語話者(ポリグロット)の話題に踏み込まないことにはならなくなる。しかし、収拾がつかなくなるので、ここでは問題の所在の指摘だけにとどめる。

 ただ、イラン人やトルコ人となると、かなり事情が異なってくる。アラビア語が分からないという意味では二級信徒であることには変りないが、民族としての規模や文化的伝統、イスラム教徒となって長い時間が経過したことなどをもって、すでに、本家のアラビア人イスラム教徒とは「別枠」、或いは「別格」のイスラム教徒と考えられる。本来のイスラムからは絶対にあってはならないことだが、現実として変容を遂げている。イラン人やトルコ人となると、アラビア語が分からないことをもって自分達のイスラム性に不安を感じることは、恐らく、ないのではないだろうか。(ただ、いつかここで論じるつもりのいわゆる「中東問題」によって、イスラム世界全体が多分に「原理主義」に引き戻されてしまった。7世紀への逆戻りである。)

 コーランが破り捨てられたことに対して騒いだパキスタン人たちは、コーランが読めるわけでもない。一部の人は文字をたどって朗誦することはできても、所詮日本人のお経と同じである。「聖なるコーラン」を偶像視していると言えば言い過ぎであろうか。
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