1)富山のコーラン破棄にかかわるパキスタン人騒擾事件(1)
今から6年ほど前、富山県で「コーラン破棄事件」なるものがあった。新聞やテレビなどマスコミが大騒ぎして、連日大きく取り上げたので、まだ多くの人の記憶に残っているであろう。しかし、当時の日本側の対応は、相手の言いなりで大甘もいいところ、報道もパキスタン人の勝手な主張を代弁するだけで、一体日本人はどこへ行ったのかと思わせるような一方的なものであった。われわれ日本人にとっての「事件」は、コーランを破り捨てたことではなく、在日パキスタン人が騒いだことの方なのだ。言うとすれば「パキスタン人騒擾事件」である。これは、とりわけ、日本人のイスラム理解の浅さを示すものと思われた。振り返って、整理してみたい。
「事件」は、2001年5月21日の朝に起きた。富山市の西隣あたる小杉町のパキスタン人が経営する中古車販売店のひとつで、社長だか従業員だかが出社したところ、事務所の周辺にミミズ文字のコーランのような二三の書物が鋭利な刃物で切り裂かれて散乱していた、というものである。これだけなら、日常よくある些細な器物損壊事件で、ニュースになることもなければ、まして立件されることなどあり得ないものであった。
平成の大合併により、現在は射水市に含まれるが、もとの小杉町や隣接する新湊市の国道8号線沿いには、富山新港などにやってくる主としてロシア人向けの中古車販売店が立ち並び、そのほとんどをパキスタン人が経営しているという。96年ごろから急激に増え始め、現在は260軒ほどに達するという情報もある。
ところで、この「事件」をきっかけに、当日から一週間余にわたって、付近のパキスタン人をはじめ、東京や大阪など各地の在日パキスタン人たちが多数集まり、騒ぎ始めたのである。果ては、東京でデモ行進をする事態にまでなった。
彼らの言い分の核心は「コーランを破棄したのはイスラムの冒とくであり許せない」というものである。コーラン自体を神聖なものとしているので、コーランとイスラムに対する二重の冒とくだということだろうか。ここで、警察やマスコミを含めた日本人は、「そんなに大切なものなら自分たちできちんと鍵をかけて管理しろ。われわれの知ったことか。われわれはコーランの番人ではない」と突っぱねるべきところであった。それをしなかったために、彼らの増長をゆるしてしまった。
当時の報道により、彼らの行動と主張をまとめると次のようになるであろう。
○ 翌5月22日、パキスタン大使館職員や関西パキスタン協会幹部を含む約250人が小杉警察署につめかけ、大騒ぎとなった。小杉署は当初、代表3人との話し合いを求めたが、イスラム教徒は納得せず、約1時間後6人と協議することで決着した。パキスタン人の申し入れと言うか、主張は次のようであったという。
「イスラム教徒に対する侮辱だ」
「コーランの冒とくは許せない」
「捜査による真相究明」
「犯人の迅速な逮捕」
「イスラム批判勢力の街宣活動の取り締まり強化」
○ その後、一同は車に乗ってデモをしながら、県警本部や県庁に向かった。代表のパキスタン人7人が県警本部の公安課の担当と話し合った。それと並行するように一行は、午後県庁へと移動し、次々と県内入りしたイスラム教徒らと合流し、およそ2時間程、県庁周囲にいる警察の警備員らともみ合いになるシーンもあった。
○ 5月25日(金)、全国から集まった在留パキスタン人など約350人が、渋谷区内のモスクで礼拝の後、デモに移り、プラカードを掲げたり鉢巻きを締めたりして、強い調子で事件を糾弾し、早期解明などを訴えた。
抗議グループは都心の日比谷公園でも集会を開いた。集会では、イスラム教批判の書物を翻訳した筑波大学助教授が1991年に殺害された事件をとりあげ、「パキスタン人は知っている、助教授殺しの犯人を!」という発言もあったという。次いで「聖典に対する罪を犯した者への教徒の感情の深さを甘く見てはいけない」とする外務大臣あての決議文を採択したあと、外務省までデモ行進し、代表9人が外務省を訪れ、捜査の徹底と再発防止などを求める申入書を手渡した。対応した南西アジア課長は、「宗教的感情に対する尊重は大切なこと。みなさんの感情が傷つけられたのは大変残念」と理解を示し、事件解明への協力を約束した、という。申し入れ書の内容には、伝えられるところでは、次のような文言があった。
「世界中のイスラム教徒に対する侮辱を意味し、許し難い」
「事件を見過ごそうとするのは国際化を自認する国として恥ずべき」
「神の言葉を破られる屈辱は、イスラムの歴史上、聞いたことがない」
在日パキスタン人は、このコーラン破棄を奇貨として、それを最大限に利用し、自分達への同情を集め、自分達の商業的利益の擁護と拡大を図り、日本国民を恫喝(筑波大学助教授殺人事件-後述)しているのである。あろうことか、よその国に来て、イスラム教徒であることをあたかも特権のようにふりかざし、イスラム教徒の立場を守れと主張している。思い上がりもはなはだしい。
イスラム教徒は、自分達の宗教的不寛容さに気がついていない。むしろそれを棚に上げて、異教徒の寛容さにつけ込んで勢力を拡大してきた。今もし、反対に、日本人がカラチで鳥居を立てたり、仏像を作ったりしたらどういうことになるか。在留日本人が寺社の建設を求めてイスラマバードでデモをしたら、いったい、どういうことになるか。
これでは、まるで日本国民がなめられている。ロンドンでは怖くてとてもできないことを、東京では堂々とやるのである。日本人は、イスラムについての無知を露呈し、言われるままになってしまった。在日パキスタン人イスラム教徒の無作法をたしなめることもできなかった。人種差別に反対するNGOが、これは「差別の典型例」などとコメントをする始末であった。「勝手に言わせておけばいい」という大人の態度ではすまされない事態にきているのである。
さらに、驚いたことに、半年後、「犯人」とされた28歳の女性が、富山地方裁判所から懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。これを微罪釈放しなくて、どこに日本人の矜持があるのか。裁判長は、つけ加えて、被告に対し「自分の行動が社会にどのような影響を与えるか、立ち止まって考えるように」と諭したという。語るに落ちるとはこのことを言うのであろう。
今から6年ほど前、富山県で「コーラン破棄事件」なるものがあった。新聞やテレビなどマスコミが大騒ぎして、連日大きく取り上げたので、まだ多くの人の記憶に残っているであろう。しかし、当時の日本側の対応は、相手の言いなりで大甘もいいところ、報道もパキスタン人の勝手な主張を代弁するだけで、一体日本人はどこへ行ったのかと思わせるような一方的なものであった。われわれ日本人にとっての「事件」は、コーランを破り捨てたことではなく、在日パキスタン人が騒いだことの方なのだ。言うとすれば「パキスタン人騒擾事件」である。これは、とりわけ、日本人のイスラム理解の浅さを示すものと思われた。振り返って、整理してみたい。
「事件」は、2001年5月21日の朝に起きた。富山市の西隣あたる小杉町のパキスタン人が経営する中古車販売店のひとつで、社長だか従業員だかが出社したところ、事務所の周辺にミミズ文字のコーランのような二三の書物が鋭利な刃物で切り裂かれて散乱していた、というものである。これだけなら、日常よくある些細な器物損壊事件で、ニュースになることもなければ、まして立件されることなどあり得ないものであった。
平成の大合併により、現在は射水市に含まれるが、もとの小杉町や隣接する新湊市の国道8号線沿いには、富山新港などにやってくる主としてロシア人向けの中古車販売店が立ち並び、そのほとんどをパキスタン人が経営しているという。96年ごろから急激に増え始め、現在は260軒ほどに達するという情報もある。
ところで、この「事件」をきっかけに、当日から一週間余にわたって、付近のパキスタン人をはじめ、東京や大阪など各地の在日パキスタン人たちが多数集まり、騒ぎ始めたのである。果ては、東京でデモ行進をする事態にまでなった。
彼らの言い分の核心は「コーランを破棄したのはイスラムの冒とくであり許せない」というものである。コーラン自体を神聖なものとしているので、コーランとイスラムに対する二重の冒とくだということだろうか。ここで、警察やマスコミを含めた日本人は、「そんなに大切なものなら自分たちできちんと鍵をかけて管理しろ。われわれの知ったことか。われわれはコーランの番人ではない」と突っぱねるべきところであった。それをしなかったために、彼らの増長をゆるしてしまった。
当時の報道により、彼らの行動と主張をまとめると次のようになるであろう。
○ 翌5月22日、パキスタン大使館職員や関西パキスタン協会幹部を含む約250人が小杉警察署につめかけ、大騒ぎとなった。小杉署は当初、代表3人との話し合いを求めたが、イスラム教徒は納得せず、約1時間後6人と協議することで決着した。パキスタン人の申し入れと言うか、主張は次のようであったという。
「イスラム教徒に対する侮辱だ」
「コーランの冒とくは許せない」
「捜査による真相究明」
「犯人の迅速な逮捕」
「イスラム批判勢力の街宣活動の取り締まり強化」
○ その後、一同は車に乗ってデモをしながら、県警本部や県庁に向かった。代表のパキスタン人7人が県警本部の公安課の担当と話し合った。それと並行するように一行は、午後県庁へと移動し、次々と県内入りしたイスラム教徒らと合流し、およそ2時間程、県庁周囲にいる警察の警備員らともみ合いになるシーンもあった。
○ 5月25日(金)、全国から集まった在留パキスタン人など約350人が、渋谷区内のモスクで礼拝の後、デモに移り、プラカードを掲げたり鉢巻きを締めたりして、強い調子で事件を糾弾し、早期解明などを訴えた。
抗議グループは都心の日比谷公園でも集会を開いた。集会では、イスラム教批判の書物を翻訳した筑波大学助教授が1991年に殺害された事件をとりあげ、「パキスタン人は知っている、助教授殺しの犯人を!」という発言もあったという。次いで「聖典に対する罪を犯した者への教徒の感情の深さを甘く見てはいけない」とする外務大臣あての決議文を採択したあと、外務省までデモ行進し、代表9人が外務省を訪れ、捜査の徹底と再発防止などを求める申入書を手渡した。対応した南西アジア課長は、「宗教的感情に対する尊重は大切なこと。みなさんの感情が傷つけられたのは大変残念」と理解を示し、事件解明への協力を約束した、という。申し入れ書の内容には、伝えられるところでは、次のような文言があった。
「世界中のイスラム教徒に対する侮辱を意味し、許し難い」
「事件を見過ごそうとするのは国際化を自認する国として恥ずべき」
「神の言葉を破られる屈辱は、イスラムの歴史上、聞いたことがない」
在日パキスタン人は、このコーラン破棄を奇貨として、それを最大限に利用し、自分達への同情を集め、自分達の商業的利益の擁護と拡大を図り、日本国民を恫喝(筑波大学助教授殺人事件-後述)しているのである。あろうことか、よその国に来て、イスラム教徒であることをあたかも特権のようにふりかざし、イスラム教徒の立場を守れと主張している。思い上がりもはなはだしい。
イスラム教徒は、自分達の宗教的不寛容さに気がついていない。むしろそれを棚に上げて、異教徒の寛容さにつけ込んで勢力を拡大してきた。今もし、反対に、日本人がカラチで鳥居を立てたり、仏像を作ったりしたらどういうことになるか。在留日本人が寺社の建設を求めてイスラマバードでデモをしたら、いったい、どういうことになるか。
これでは、まるで日本国民がなめられている。ロンドンでは怖くてとてもできないことを、東京では堂々とやるのである。日本人は、イスラムについての無知を露呈し、言われるままになってしまった。在日パキスタン人イスラム教徒の無作法をたしなめることもできなかった。人種差別に反対するNGOが、これは「差別の典型例」などとコメントをする始末であった。「勝手に言わせておけばいい」という大人の態度ではすまされない事態にきているのである。
さらに、驚いたことに、半年後、「犯人」とされた28歳の女性が、富山地方裁判所から懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。これを微罪釈放しなくて、どこに日本人の矜持があるのか。裁判長は、つけ加えて、被告に対し「自分の行動が社会にどのような影響を与えるか、立ち止まって考えるように」と諭したという。語るに落ちるとはこのことを言うのであろう。