タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

しばらく休みます。

2012-11-24 18:55:11 | こころ
このブログは、
しばらく、お休みします。


再開は、12月の後半になると思います。


いままで、読んでくださった皆さま、
どうも、ありがとうございます。


タイムマシンによろしく103

2012-10-25 09:28:09 | こころ
以前、
フランスで、
性急(せいきゅう)に死を選ぶ10代の若者が増(ふ)え、
社会問題化しているという記事を
読んだことがありました。


日本でも、いじめによる子供たちの自殺が、
問題になっているけれど、
それとは少し違(ちが)う内容で、
印象(いんしょう)に残っていました。


英紙ガーディアンによると、
パリの南東イブリー・シュール・セーヌで、
二人の14歳の少女が放課後、
男友達の部屋がある17階の窓から、
手首を紐(ひも)で結んで
飛び降(お)り自殺した。

二人は別々の学校に通っていたが、
この日は、学校が終わった後、
男友達の家族が住む
アパートを訪(おとず)れていた。

二人は、アパートに着くと、
寝室(しんしつ)の中に入り、
男友達と、もう1人の男性に、
呼ぶまで待つよう指示(しじ)した。

その際(さい)、少女たちから
「思いがけない事」を期待するようにと
告(つ)げられたという。

呼ばれた男性二人が寝室に入ると、
二人の少女は、寝室の窓(まど)に立っており、
すぐさま飛び降りた。


「止める暇(ひま)がなかった」

と、男友達の1人は言う。


1人の少女の遺体から
遺書(いしょ)と見られる紙切れが見つかった。

それには、ただ単(たん)に

「人生は、生きる価値(かち)がない」

との走り書きがあった。


不自由(ふじゆう)なく育った少女が
なぜ死を選んだのか。


他にも、フランスでは、
ドーバー海峡(かいきょう)に近い
港町カレイ近郊で
この事件と同様に、
14歳と15歳の少女が、
がけから飛び降りて、
自殺(じさつ)してしまったと、
書かれていました。


・・・・・・・・・


死ぬことに、
それほど、魅力(みりょく)があるのだろうか?


死ということが、
何か、素晴らしい門出(かどで)だとでも、
思っているのだろうか?

永遠の生命観(せいめいかん)から言えば、
確かに、死は、新たな人生への、
出発と考えることも、可能(かのう)です。

しかし、それは、
その人が、人間として、
生きて生きて、生き抜(ぬ)いた後で、
言える話しで、
一個の生命として、
生き抜くことを、拒否(きょひ)した人間の、
言えることではない!


自殺した少女は、言う。


「人生は、生きる価値がない」と。


そうではない。

生きる価値を、見つけることが、
できなかっただけだ。


ここに、大きな問題があると思う。


日本でも、そうだと思うけれど、
高校や大学、
あるいは、一流の会社に入るために、
さまざまな知識(ちしき)は、
教えてくれるけれど、
生きる価値について、
自分の生命が、かけがいのないものである!
ということは、
教えこまれていない・・・。


その人が、その人である!というだけで、
生きている、かけがいのない、
最高最大の価値が、ある!


そのことを、なかなか教えらない・・。


だから、子供たちの自殺が、
増(ふ)え続けるのかもしれない。


もうひとつ、問題がある!


かりに、生きる価値について、
教えたとしても、
それを、現実(げんじつ)に感じることが、
できなかったら、
子供たちは、信(しん)じられず、
自殺するかも、しれない・・・。


ところが、この二つの問題を、
みごとに、解決した、
生命哲学(せいめいてつがく)が、
存在する!

生きる価値を、
自分の生命で、感じることのできる、
自(みずか)らの、心と体で、
爆発(ばくはつ)させていける、
生命哲学が、存在する!!


それが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法(ぶっぽう)です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


『南無妙法蓮華経は、歓喜(かんき)の中の大歓喜なり!』

と、言う。

それは、南無妙法蓮華経が、

自分とは、いったい、何なのか?

なぜ、自分は、生まれてきたのか?

その生命の価値を、存在(そんざい)を、
一瞬のうちに、認識し、感じることのできる、
生命の究極(きゅうきょく)の法則(ほうそく)だからです。


南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
人間の生命の最高最大の価値を、
表現している。

だから、南無妙法蓮華経を、となえると、
自分の中にある、
生命の最高最大の価値が、
呼び起こされる!

呼び起こされた、自分の生命の中にある、
偉大(いだい)なる価値は、
みずからの生命で、その価値を、感じ、
認識(にんしき)し、
最大の歓喜を、味(あじ)わうことになる!


それが、創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)であり、
『南無妙法蓮華経』という、
秘法(ひほう)だと思う!!


だから、南無妙法蓮華経を、
となえると、
『歓喜の中の大歓喜!』という、
生きていく最大の価値を、
自らの生命で、
強烈(きょうれつ)に感じることが、できる!



南無妙法蓮華経を、
一ぺん(一回)でも、となえたら、
その人は、救(すく)われるとも、言う。


南無妙法蓮華経は、
それほど、スゴイということです。


だから、
フランスの自殺した少女たちが、
もし、創価学会を、知っていたら・・・

もし、南無妙法蓮華経を、知っていたら・・・

そして、一ぺん(一回)でも、
南無妙法蓮華経を、となえたならば、
99.9%!!
彼女たちは、
自殺を、踏(ふ)みとどまり、
生きる!ことを、選んだに違いない・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく79

2012-05-30 09:13:02 | こころ

すべての人の、こころの中には、
宝物(たからもの)がある。


それは、当然なのかもしれません。


なぜなら、それは、
自分の生きている証(あかし)であり、
生きていく大きな支え(ささえ)となっていると、
思うからです。

大切な大切な、こころの中の宝物。

自分が生きてきた、
また、生きている証(あかし)である
生命に刻(きざ)まれた宝物。

けれど、その、こころの中の宝物は、
ほとんどの場合、
人には、わからない、
人には、見えないものかもしれない。


けれど、
だれがなんと言おうと、
やっぱり、すべての人が、
こころの中に、宝物を持っている。


その、こころの中の宝物は、
自分の心の壁(かべ)に、閉(と)ざされて、
決して、出てこない場合もあるかもしれません。

また、そんな、こころの中の宝物なんて、
忘れ去(さ)っている場合も、
あるかもしれません。

その、こころの中の宝物を、
ほんとうは、外に出したいのに、
出せない場合も、多いかもしれない。


すべての人が、
かけがいのない『人間』であることの、
『証(あかし)』


それが、
「こころの中の宝物」かもしれない・・・。


その・・、
その人が持っている、こころの中の宝物を、
もし、ほんの、わずかでも、
わかってあげられたら・・・・!

こころの中の宝物を、
ほんのわずかでも、
認(みと)めてあげることが、できたなら・・・!

そういう人が、
世界に、一人でも、いたならば、
その人は、幸せかもしれない・・・。


人は、自分の中の、
「こころの中の宝物」を、
出したがっていると思う。

別にそんなもの、出したくもないし、
人に見せたくもないと言うかもしれませんが、
ほんとうは、
自分の中の「こころの中の宝物」を、
みんなに見せて、
自分だって、生きいてるんだ!と、
誇(ほこ)らかに、
声をあげて、
叫(さけ)びたがってるんだと思う。

「こころの中の宝物」を、
自分の中から、
おもいっきり出すことが、できたなら、
その人は、
世界一の、幸せ者だと思う。


けれど、
その「こころの中の宝物」を、
出せない悲しみ・・・!

「こころの中の宝物」を、
出すことのできない苦しみ・・・!

「こころの中の宝物」があるのに、
出すことのできない、
だれも、わかってもらえない辛(つら)さ・・・!

また、自分の中に、
「こころの中の宝物」が、
あることすら、わからず、
信じられない人も、多いかもしれない。


そこから、不幸は、
生まれるのかもしれないと思う。


その辛さ(つらさ)から、
人は、ある時は、
人を、傷(きず)つけたり、
ある時は、
大変な犯罪に、およぶことも、
あるかもしれない。


すべての人が、
「こころの中の宝物」を、
持っているにも、かかわらず・・・・!


こころの中の宝物が、
人間の生命の中に存在すると仮定(かてい)する。

そして、その、
人間の生命の中にある、
最も強く、最もあったかく、
最も清(きよ)らかで、
最も素晴らしく、
あらゆる価値(かち)と
あらゆる可能性を秘(ひ)めた、
最も輝(かがや)いてる
「こころの中の宝物」のことを、
仏法(ぶっぽう)では、
あるいは、創価学会(そうかがっかい)では、

「仏界(ぶっかい)の生命」

と、呼ぶ。

あるいは、

「仏(ほとけ)の生命」

と呼ぶ。

仏界(ぶっかい)の生命とか、
仏(ほとけ)の生命とかいうと、
仏法用語だし、
わかりずらく思ってしまうかもしれない。

また、自分には、
関係ないような気もしてくる。

けれど、『こころの中の宝物』なら、
すべての人が、もっている。

すべての人が、
その「こころの中の宝物」を、
輝かせ、開花(かいか)させていきたいと思う。

すべての人の中にある、
『こころの中の宝物』。

その、こころの宝物の中で、
最も強く、最も深く、最もたくましく、
この『こころの中の宝物』があるおかげで、
何ものにも負けず、
どんな苦難(くなん)も跳(は)ねのける、
強くて、あったかくて、やさしくて、
最高の幸せと、無限の可能性を秘(ひ)めた、
最強最高の生命(せいめい)。


そんなものが、あるとしたら、
それが、だれもが望(のぞ)む、
最強無敵(さいきょうむてき)の
『こころの中の宝物』だと思う。


そして、その最強無敵の『こころの中の宝物』に、
名前をつけて、
『仏界(ぶっかい)の生命』
と呼んでいる。


すぺての人の中に、
『こころの中の宝物』があることは、
わかると思う。

だとしたら、自分の中に、すべての人の中に、
最強無敵の『こころの中の宝物』があることも、
推測(すいそく)ができると思う。


そして、それは、実際(じっさい)にある!!


世界中の、どんな人でも、
どんな環境(かんきょう)の人でも、
必ず、幸せになっていける、
『こころの中の宝物』。

どんな悩みも、どんな困難(こんなん)も、
必ず乗り越(こ)えていける、
『こころの中の宝物』。

どんな運命(うんめい)や環境も、
打ち破(やぶ)り、人間革命して、
必ず、勝っていける、
『こころの中の宝物』。

その可能性とエネルギーと、
影響力(えいきょうりょく)が、
とても表現できないほど、
スケールが大きく、無限大(むげんだい)だから、
表現しようがないので、
その『こころの中の宝物』のことを、
『仏界の生命』と呼んでいる。

そして、素晴(すば)らしいことに、
こころの中の宝物が、すべての人の中にあるのと、
まったく、同じように、
その最強無敵の「こころの中の宝物」である、
『仏界(ぶっかい)の生命』は、
すべての人の中にあり、
すべての人が、持っている!!!


創価学会インターナショナル会長の、
池田先生が、

「世界中のすべての人が、
自分の中に、
仏界(ぶっかい)の生命があることが、
わかったら、
戦争は、なくなる!」

と、言っていた。


たしかに、そうだと思う。


仏界の生命とは、
どんな人でも、必ず幸せをつかんでいける、
最強無敵の『こころの中の宝物』です。

その、「こころの中の宝物」が
あることが、わかったら、
また、その「こころの中の宝物」を、
自分の中から、出すことができたなら、
それだけで、
その人は、満(み)たされ、
犯罪(はんざい)や、戦争を起こす必要が、
無くなっていく。

なぜならば、
必ず幸せをつかんでいける
「こころの中の宝物」が、
自分の中にあることが、わかり、
また、それを、自分の中から、
出すことが、できたなら、
それは、そのまま、
自分の価値、自分の存在を、
自分で認め、人からも、
認められることに、なっていくからです!


その、満たされた心からは、
犯罪は、起こらないと思う!!!


その、すべての人の中にある、
『仏(ほとけ)の生命』という、
最強の「こころの中の宝物」を、
自分で、わかり、自分で認め、
自分で、自分の中から、
引き出す、
世界で唯一(ゆいいつ)の方法を説いたのが、
『仏法(ぶっぽう)』であり、
それが、創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
の仏法です。


そして、その、
『仏界(ぶっかい)の生命』という
最強無敵の「こころの中の宝物」を引き出す、
世界で、たった一つの方法!


それが、

『南無妙法蓮華経を、となえる!』

ということなんです。


だから、
『南無妙法蓮華経を、となえる』と、
自分の中の、「こころの中の宝物」に、
目覚(めざ)め、
自分の中から、「こころの中の宝物」を、
引き出すことが、できるようになり、
やがて、
さまざまな夢や希望、幸せを、
つかむことが、
できるようになってくる。


それが、

『ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえる』

ということだと思う。


少し、掘(ほ)り下げて話すと、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしています。

だから、仏の生命そのものの名前が、
「南無妙法蓮華経」だと言っていい。

そして、ご本尊(ほんぞん)とは、
その仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、あらわした、
自分の生命の鏡(かがみ)のようなものです。

南無妙法蓮華経という仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあるので、
どんな人でも、
その『仏の生命(せいめい)』を引き出せば、
必ず幸せになっていける。

そのことを、あらわした、
自分の生命の象徴(しょうちょう)のようなものが、
『ご本尊』です。

だから、ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえていった時、
自分自身の心を見て、
自分の心を呼び覚ますように、
その人の中から、最高の「こころの宝物」が、
引き出され、
自分の生命に、
大いなる価値と幸せを感じ、
勇気や知恵や、歓喜(かんき)となって、
その人を輝(かがや)かせ、
やがて、それは、悩みを解決したり、
夢を、かなえたりして、
現実の結果となって、
その人を、幸せに導(みちび)いていく・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

すべての人の中に
「こころの中の宝物」はある。

そして、その「こころの中の宝物」の中で、
最も強く、最も深く、最もあたたかく、
最もたくましい、何ものにも負(ま)けない、
無限の可能性を秘めた、
最も幸せな、「こころの中の宝物」!


それが、『仏界(ぶっかい)の生命』であり、
『仏(ほとけ)の生命』だと言えます。


そして、さきほども言ったように、
『仏界の生命』の本源的(ほんげんてき)な名前のことを、
『南無妙法蓮華経』と言います。

南無妙法蓮華経とは、本源的な、
最強無敵の「こころの中の宝物」の名前だと言えるので、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ということは、
その「最強無敵の、こころの中の宝物」の名前を呼び、
呼び出すことになります。


だから、呼ばれて、
自分の中から「こころの中の宝物」が、
引き出され、開花していく。


また、逆(ぎゃく)に言えば、
南無妙法蓮華経は、
『仏界の生命』『仏の生命』を表現した、
唯一(ゆいいつ)の名前ですから、
その名前を呼ぶ以外、
『仏の生命』という、
最強無敵の「こころの中の宝物」を、
引き出す方法は、ありません。

『南無妙法蓮華経を、となえる。』

それは、仏界の生命という、
最強無敵の『こころの中の宝物』を引き出す、
たったひとつの、
唯一(ゆいいつ)の方法なんです。

だから、人生、いろいろ、ありますが、
最終的には、

『南無妙法蓮華経を、となえるしかない!!』

と言っても、さしつかえありません。

そして、その南無妙法蓮華経の仏法を、
世界規模(きぼ)で実践しているのが、
創価学会(そうかがっかい)です。

だから、
世界の良識ある、有能は人物たちは、
(大げさに聞こえるかもしれませんが)
創価学会に、まるで、
世界を救えるのは、創価学会だけだ!
とでも、言わんばかりに、
創価学会に、期待し、絶賛(ぜっさん)し、
世界の希望を、たくしている!


けれど本当は、おおげさではなく、
実際(じっさい)に、そうかもしれません。

それほど、創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の仏法は、スゴク、
現実と世界と人間を、
着実(ちゃくじつ)に、ひとつひとつ、
善(ぜん)の方向に、平和の方向に、
幸せの方向に、変革(へんかく)している。

またそれが、世界の善意の人たちの、
一貫(いっかん)した、
創価学会に対する、見方(みかた)です。


やがて、そのことに、
日本も、
また一人、また一人と、
水かさが増すように、
気づいていくことでしょう・・・・!


そして、
創価学会の、素晴らしさ、偉大(いだい)さを、
素直に、
賞賛(しょうさん)せざるおえない時代も、
来ることでしょう・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく76

2012-05-17 09:11:57 | こころ
ぼくの会社は、
ビルの11階にあるので、
エレベーターを待(ま)っている時間と
エレベーターの中で、
聖教(せいきょう)新聞を、読みます。

何を読むかというと、
聖教新聞の一面の下に、毎日のっている、
「名字の言(みょうじのげん)」
というコラムを読みます。

だいたい、11階に着くまでには、
読めちゃうし、
すごく良いことが書いてあるので、
いつも、励(はげ)まされ、
勉強にもなっています。


そんな「名字の言」に、
以前、こんな話しが、のっていました。


それは、
かなり前に載(の)った記事ですが、
創価(そうか)小学校の入学試験の日、
入学試験にのぞんだ、
ある子供の話しでした。


その子は、正直(しょうじき)、
あまり、勉強していなかったので、
合格するとは、思っていなかった。

けれど、その子は、
その入学試験が開始になる前に、
一生懸命(いっしょうけんめい)、
勉強している子供を、
みつけた・・!


「ぼくは、ダメかも、しれないけど、
この子なら!」


と、
その子は、自分の思いを託(たく)し、
勉強している子供に、
消しゴムを、あげた。


「いっしょに、がんばろう!」


と。


消しゴムを、もらった子供は、
みごと、合格した。

入学式、
消しゴムを、もらった子供は、
消しゴムを、くれた子供を
探(さが)したけれど、
その子は、いなかった。


そして、あの子の分まで、
がんばろう!


と、思った。


そして、その子は、
創価中学、高校と、進学し、
そのたびに、もしかしたら、

消しゴムを、くれた子供が、いないだろうか?

と、みんなに話した。


けれど、その子は、いなかった。


けれど、
消しゴムを、あげた子供は、
そのことを、
ずっと、おぼえていた。

聖教新聞などに、
創価学園の子供たちが、のったりすると、

「あー!この子だ」

と、見つけて、
いつも、励(はげ)みにしていた。


12年の歳月(さいげつ)が過ぎ、
消しゴムを、あげた子供は、
創価大学に、合格した。

消しゴムを、もらった子供も、
創価大学に、入学した。


そして、二人は、
大学で、
感激(かんげき)の再会を、はたした。


消しゴムを、もらった子供は、
いつか、この「消しゴム」を見せよう!と、
ずっと、ずっと、
小学校の入学試験で、もらった消しゴムを、
大切に持っていた。


そして、その消しゴムを、
あげた子に、見せることができた。


ペンギンの形をした、消しゴムだった。


そのあと、名字の言では、
こう、書いてあった。

『とかく、敗者には冷たい世の中。
その中にあって、
不合格者に、
励(はげ)ましの手紙を送ることが、
伝統(でんとう)になっている創価学園。

創立者・池田名誉会長も、

「学園を目指(めざ)そうとした人は
皆(みな)、学園生です」

と、
あたたかく見守り続けている。』

と・・。


最後のくだりは、
創立者が、どういう人間か?
すごく、よくわかる、
エピソードだと、思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

以前、
創価大学の同窓(どうそう)の集(つど)いに
参加した人の話しを、
聞いた。

何十年ぶりに集まった、
創価大学の同窓の方々を前に、
創立者である、
池田創価学会インターナショナル会長が、
話しを、してくれたそうだ。

まるで、一人一人と、
対話するような話しだったそうです。

「もう少し、話してもいいか?
もう少し、大丈夫か?」

と、同窓生たちに、聞き、
そのたびに、
「ハイ」という元気のいい、
返事が、返ってきた。


池田先生が、

「もう、終わったほうが、いいか?」

と、聞いたら、
思わず、一人の卒業生が、

「ハイ!」

と、返事をした。

池田先生は、こう、きりかえした。

「財布(さいふ)には、いくら、はいってるんだい?」

その卒業生は、
それほど、大学から遠くないので、
必要なかったせいで、

「三千円です!」

と、答えた。

池田先生は、大の大人が、
三千円では、かわいそうだと思ったのだろうか?

「ちょっと、壇上(だんじょう)に来なさい!」

と、その卒業生を呼ぶ。

その卒業生は、壇上で、
池田先生に、財布の中身(なかみ)を見せた。


二千五百円しか、なかった。


池田先生は、

「私が、二千円もらうから、
そのかわり、二万円を、
お小遣(こずか)いとして、あげよう!」

と、言い、
池田先生も、手持ちはなかったけれど、
関係者から二万円を借(か)り、
二千円を、
その二万円に、
変えた


失敗も、プラスに変えて、
逆(ぎゃく)に、
思い出と励(はげ)ましに変えてしまう、
こころのマジックのような
話しだと思った・・。


それは、親が、子供を思うような、
垣根(かきね)をもたない、
人間らしいシーンでもあると、
思った・・。


また、それが正直な、
池田先生の気持ちだと思う。


そこには、権威(けんい)も、
変な規律(きりつ)もない。

人間が、人間を思う、
あたたかい真心(まごころ)が、
あるだけだ。


人間が、人間として、
一人の人間を、励(はげ)まし、
思いやる。


人を思いやる、
真心の連鎖(れんさ)が、
創価学会なのかもしれないと、
思った・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく49

2012-01-02 14:09:28 | こころ
創価学会(そうかがっかい)で
仏法(ぶっぽう)を学んでいくなかで、
不軽菩薩(ふきょうぼさつ)という菩薩の話しが、
でてきます。

不軽菩薩(ふきょうぼさつ)というのは、
どんな人間であっても、
すべての人の中に
仏性(ぶっしょう)という、
仏(ほとけ)のように
清(きよ)らかで、強くて、素晴らしい、
最高の生命があることを説くために、
すべての人間を、
礼拝(れいはい)して回ったという菩薩(ぼさつ)です。

そのため、みんなから、
うさんくさがられ、バカにされ、
石を投げられたり、たたかれたりして、
迫害(はくがい)を受け続けました。

けれど、その行動は、
仏法(ぶっぽう)から見ると、
人間の生命を最大に尊敬(そんけい)する
正しい行動だったので、
その功徳(くどく)によって、
不軽菩薩は、宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)して、
成仏(じょうぶつ)し、
後の世に(来世・未来世に)、
釈尊(しゃくそん/釈迦・ブッタ)となって
生まれてきたという話しです。


ようするに、不軽菩薩は、
釈尊(しゃんそん・ブッタ)の、
過去世(かこせ)の姿だったということです。


その不軽菩薩の話しから、
以前、創価学会の先輩(せんぱい)が、

『人は、実(じつ)は、自分を写す鏡(かがみ)なんだ!』

という話しを、してくれた。

どういうことかというと、
人の中にある仏性(ぶっしょう/仏の生命)を
たたえるということは、
実は、自分の中にある仏性(仏の生命)を
たたえていることになり、
人を、たたえ、尊敬(そんけい)することが、
実は、自分自分を、たたえ、尊敬することになり、
自分を、自分の人生を、
幸せの方向に、
大きく、開花(かいか)させていくことになる!
ということです。


人というのは、
自分の心に反応(はんのう)して、
自分の心に、対応して、
自分の心の鏡(かがみ)のように、感情や、しぐさや、
行動を、起こしていくという
一面(いちめん)もある。

その人を、バカにして話していれば、
それは、伝(つた)わり、
相手は、
冷淡(れいたん)な態度で接(せっ)してきます。

こっちが、尊敬して対応(たいおう)していると、
相手も気持ちよくなって、
こちらを尊敬してくれます。

そう、単純(たんじゅん)には、いかないけれど、
営業にしても、
こっちが、自信なく話していれば、
相手は、軽(かる)く、あしらってきます。

こっちが、自信を持って堂々(どうどう)と話していると、
相手は、
「そうかなあ!」と思って、
乗(の)る気で、対応してくれます。


単純なようで、あたりまえのようだけれど、
確かに、そうだと思います。


『人は、自分を写(うつ)す鏡!』


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


人を尊敬して接すれば、接するほど、
自分も、尊敬される。


それは、なんとなく、わかる。


けれど、ここには、無理(むり)がある。


いくら、人を、心から尊敬しろと言われても、
なかなか、実際には、
難(むずか)しいこともあると思う。

また、ネックとして、
人を尊敬するためには、
自分の存在(そんざい)も、尊敬していなければ、
なかなか、できない!

自分の存在に大きな価値(かち)があり、
自分が生きているということに、
大きな尊敬を感じることができなかったら、
確かに、人を心から尊敬するということも、
できないと思う・・・。


そこが、ポイントだと思う。


自分を、心から、尊敬しているという人は、
なかなか、いないと思う。

また、心から、自分は尊敬できない!
というのが、本音(ほんね)だと思う。

自分を、尊敬するというのは、
ちょっと、おかしな表現かもしれないけれど、
自分は、本来(ほんらい)、
ほんとうに強くて、やさしくて、
あったかくて、魅力(みりょく)があって、
どんなこともに負けない、素晴らしい人間なんだ!
と、わからせてくれる、

「何かの存在」

が、必要となるのは
事実だと思う。


普通、人間は、鏡(かがみ)を見て、
自分の姿を、認識(にんしき)する。

自分は、こうなんだ!と、
鏡を、見ることによって、
わかることが、できる。

けれど、それは、見た目、
表面(ひょうめん)上のことにすぎない。

これが、もし、
自分の生命の、心の底(そこ)まで
見ることのできる鏡があったら、
自分の生命が、どういうものか?
認識することが、できる。

その、自分は、ほんとうに強くて、
やさしくて、あったかくて、魅力があって、
どんなこともに負けない、素晴らしい人間なんだ!と、
自分の生命の底から、
認識させてくれる『鏡(かがみ)』が、
実は、
創価学会が祈る対象(たいしょう)として
信望(しんぼう)している、

『ご本尊(ほんぞん)』

なんです。

※ご本尊とは、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
仏(ほとけ)の生命を文字で表現しきった、
紙などに描かれた曼荼羅(まんだら)です。


最強最高の自分を写しだす鏡!
それが、『ご本尊(ほんぞん)』!!


その、ご本尊は、仏(ほとけ)の生命そのものを、
現(あらわ)している。

仏(ほとけ)の生命というのは、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝(かがや)いた魅力的な、
しかも、無限の可能性とエネルギーを
秘(ひ)めた生命なんだけれど、
それは、そのまま、
『自分自身の生命を、現(あらわ)してもいる!』

すなわち、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
無限の可能性とエネルギーを秘(ひ)めた、
最高に素晴(すば)らしく輝いた生命が、

『自分の中』に、
『明(あき)らかに、存在している!』

ということを、
伝えるために、『ご本尊』は、ある。

ご本尊自体が、
必ず、幸せになっていける、
必ず、悩みや困難(こんなん)を乗り越(こ)えていける、
必ず、夢や希望をかなえていける、
最高にすばらしい本当の自分自身を、
そのまま映(うつ)し出した、
『鏡』
だということです。

だから、『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる時、
『ご本尊』という、『自分の鏡』を見て、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝いた魅力的な自分自身を、
思い出し、感応(かんのう)して、
実際に、そういう生命が、
自分の中から、わき上がってくる。

そのことによって、
本来の自分に戻(もど)ることが、できる!!


その『本来の自分に戻る』とは、
無限の可能性とエネルギーを秘めた自分自身に、
戻ることができると、いうことです。

そして、
その自分の中から湧(わ)き上がってきた、
本来の、無限の可能性を秘(ひ)めた
生命の力によって、
悩みを解決できたり、
夢や希望をかなえていけたり、
するわけです。

また、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、
自分の中から、本当の生命の尊厳(そんげん)が、
わき上がってくるので、
そのことによって、
自分と同じように、
人も、尊敬することが、
できるようになってくる!
と、いうわけです。


日々、『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえていくことによって、
それが、自然に身についていき、
無理をしなくても、
自然に、人を、尊敬する接(せっ)し方が、
できるようになっていくということです。



少し、話しましたが、
ご本尊と南無妙法蓮華経のスゴサは、
悩みや問題が解決できたり、
夢や希望をかなえていけたりして、
計(はか)り知れない可能性がありますが、
ご本尊に南無妙法蓮華経を
となえていくことによって、
自分の中から、
最高の尊厳(そんげん)がわきあがり、
また、人も心の底から、
自然に尊敬できるようになっていく!ということも、
この、『ご本尊』と、
南無妙法蓮華経の、
スゴサだと思う!


ともかく、人は自分を写す鏡・・・。

人が、自分を写す鏡だとしたら、
その鏡を、最高に素晴らしく、
魅力的な鏡にするのが、
『ご本尊』の存在であり、
自分も、人も、
最高に尊敬する行為(こうい)が、
『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経を、となえることに、
なるんだと思う・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・