私は今引きこもっていて、色んなことを考えている。次に行くための、大事な準備期間なのかもしれない。毎日有意義に活動的に過ごしているわけでは全然なくて、家で不毛に過ごしてる時間が長いけど、準備をしている感触もある。このまま、また社会に無理に出てしまえば同じことの繰り返しだと思うから。
私は、こんなことを最近思う。
教育=洗脳によって、本来もっていた鋭敏な感受性や創造力が、愚鈍化したと思う。
自分の感性ではわかっていることを 論理や日本の「常識」(理性と呼ぶことにする)によってわからなくされて、愚鈍になって、トンチンカンで間違った選択をしてしまう。
「わかっていること」は、大きな声を出さないで、小さな声でささやいている。それに対して論理や「常識」といった理性は、ひっきりなしに大声で私に喚き散らしてくる。そして私の思考、選択を多大な影響力で動かす。
理性が正しかったことがあっただろうか
その理性は、辿って行けば、支配層の都合 である。私たちを支配している人達(巨大な振り子)が、自分達の都合と合致することを、私たちに絶えず洗脳している。
また、私の母は、そういう人達といつだって社会的に闘う立場の人で、それをしてきた人なのに、私はどうしても、彼女自身の中の洗脳 盲目を読み取り、頭痛がする。社会のおかしさと闘う人なのに、彼女自身がすごく洗脳されてる。そして私にその生き方を押し付けてきた。いわゆるクソ真面目と言われる自己犠牲的で利他的な姿勢 高い品位 正義 公共の福祉がなにより大事という姿勢 である。だから、私には二重拘束(ダブルバインド)がひどかった。彼女の職業が大きいと思う。その職業は、一等、巨大な振り子に利用されている洗脳の現場での仕事だからだ。
支配層と闘う活動家なのに、かたや、かれら振り子の忠実な片棒担ぎ になっている。
私は母を見てると頭痛がする。私にふりかかった弊害も多大であった。
彼女に育てられた私は、この社会の中で、いつだって損をし 自分の権限はふみにじられ続け 椅子取りゲームではいつも負け ひっかぶり役を押し付けられ 踏み散らかされる存在 になった。それをしたのは、母が徹底的に支援活動をする社会的最下層の「弱者」の人達であった。
話が逸れてしまったが、私は、もともと備わっていた感受性や創造力を回復しようとしている。
そして、これ以上トンチンカンな間違いを犯さないようになりたい。
「わかってること」は 声が小さいから 雑に扱ったり 無視したり 聴こえないふりしたりせずに 丁寧に扱うようにしたい。