意思による楽観のための読書日記

蘇我氏の正体 関裕二 **

関さんのこのシリーズは歴史読み物として楽しく読めばいいと思う。こういう見方もある、という本である。

まずは乙巳の変、蘇我入鹿暗殺事件、中大兄皇子と中臣鎌足は三韓がそろって来訪する日を狙って蘇我倉山田石川麻呂に上奏文を読ませ、用心深い入鹿を油断させて皇極天皇の目の前で殺した。入鹿が王族を滅ぼそうとしている、というのがその理由。これが乙巳の変である。日本書紀は蘇我氏は悪である、と主張しているが、これは日本書紀編纂に関わった天武天皇が天皇家の正当性を主張すべく記述した、という解釈がある。しかし、筆者は日本書紀にもう一人深く関わった藤原不比等が藤原家の正当性を主張しようとしたものとする。日本書紀が編纂されたのが720年、中大兄皇子が入鹿の陰謀としたのは山背の大兄王一族(上宮王家)滅亡事件を指していた。山背大兄王は父は聖徳太子、推古天皇崩御の後に皇位継承者候補となったが、蘇我蝦夷により田村皇子が即位、舒明天皇となった。舒明の次は皇極、山背大兄王は蘇我氏によって皇位から遠ざけられた。これは蘇我蝦夷と入鹿の専横だ、というのが中大兄皇子が訴えた立場であった。

筆者は時代が異なる菅原道真と蘇我入鹿の境遇が一致していると分析、人物として学堂で右にでるものがなく、国家改革事業で入鹿は屯倉制度導入や王家の強化を推進、道真も税制、監査、土地制度の改革を進め、これらがもし実現すれば藤原氏の勢力が危うくなったのが共通点だとする。そして入鹿も祟ってでていたとするのだ。入鹿暗殺後も孝徳天皇は蘇我氏の改革を進めようとしていた。しかし中大兄皇子と中臣鎌足はこれを妨害、孝徳天皇による難波遷都にも反発、中大兄皇子は飛鳥に都を戻した。蘇我氏の改革事業の痕跡をきれいに消し去ろうということを、日本書紀の筋書きを大きく曲げてまで蘇我氏を悪者にするカラクリがあったというのである。

入鹿殺害後いくつかの奇妙な出来事が朝廷で起きている。斉明天皇即位直後大空に奇妙な生き物が見え、斉明天皇が九州赴任時に雷神が怒り鬼火が現れ二ヶ月後に斉明天皇は崩御、その葬儀には大笠をかぶった鬼が出現したというのだ。祟っていた、というのは道真公のように蘇我氏に正義があったと人々が思っていたことの証拠である。

中臣鎌足は一体誰なのか、筆者は百済王豊璋がその人ではないかと推測する。豊璋来日後中臣鎌足が歴史に登場、豊璋が百済に召喚されると中臣鎌足も姿を見せない、百済と倭国が唐と新羅の連合軍に敗れ豊璋が行方知れずになるとふたたび中臣鎌足が中大兄皇子の前に現れる。中臣鎌足は百済救援を中大兄皇子に持ちかけ、その見返りに中大兄皇子は権力を手に入れた、蘇我氏はその邪魔をしていた、という構図である。入鹿が殺害されたときに古人大兄皇子が「韓人に殺された」と言ったというのは、ヤマト朝廷の方針変換のことを指しているという推測である。

武内宿禰は神話であり実在しないとされているが、日本書紀では孝元天皇の曾孫、古事記では孫とされている。日本書紀では景行天皇から成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の5朝につかえたとされ、古事記は成務以降の4朝とされる。いずれにしても300年という長さであり考えられない長寿である。そして蘇我氏はその武内宿禰の子孫である。

日本書紀の編纂された8世紀までは鬼はモノと呼ばれ、神と鬼は同一の存在であったが、平安時代には鬼はオニと呼ばれ悪者扱いされるようになった。ヤマト神道祭祀の中心は物部氏、その後藤原氏が神道そのものをのっとり、神話も創作して物部氏の大きさを抹殺しようとした。その時、モノ=鬼=邪という烙印を押したというのである。法隆寺が聖徳太子の寺である、としたのは梅原猛、聖徳太子の末裔を滅亡に追い込んだのは蘇我氏、だから藤原氏は法隆寺建立で、蘇我氏を徹底的に封印するために鎮魂した、という主張である。

日本書紀ではヤマト建国にいたる過程を出雲の国譲り、天孫降臨、神武東征という3つの説話にした。つまり、初代神武天皇、10代崇神天皇、蘇我氏の祖武内宿禰の仕えた神功皇后とその子15代応神天皇という具合である。武内宿禰の活躍は黎明期の大王家と蘇我氏の祖先が大いに関係を持っていたことを示す。ヤマト王朝には蘇我氏の血が混じっているのを必死で隠そうとした、というのが筆者の推測である。

纒向遺跡には全国からの土器が出土する。北部九州、山陰、吉備、北陸、東海であり、農業の痕跡がない宗教的、政治的都市だったという。纒向に強い影響を及ぼしたのが吉備、その後山陰の影響が強い。それにしても出雲神話に見合うような考古学的発見がないと言われていた。しかしここ20年で荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から弥生時代の青銅器が発見され出雲での勢力が侮れない力を持っていたことが証明された。出雲から越と言われた北陸の日本海側沿岸地域に大きな連合体があった可能性がある、山陰の鉄が古代史に意味を持つことが分かってきたという。

魏志倭人伝によれば卑弥呼の死を受けて男王が立ったが収まらずトヨが女王として君臨し国はおさまった。考古学的にはその後に纒向遺跡がある。筆者はトヨがヤマトに裏切られ九州筑後川から鹿児島の野間岬を目指した、これが出雲の国譲りであり、天孫降臨であるという。日本書紀がこれを隠したのは、トヨの夫とされる仲哀天皇、実際には武内宿禰であり、蘇我氏の祖先であった。この二人の子が応神天皇であり神武天皇と同一人物であったという。そして出雲神の正体がトヨと武内宿禰であるという推測である。

また、日本書紀で天の日槍(あめのひぼこ)とされるのはツヌガアラシトであり、新羅の王子であった。船で播磨の国にきて宇治川から近江、若狭、但馬の地を選んだ。そこには鉄があったから、という推測である。そしてその末裔が蘇我氏であったというのである。なぜ日本書紀が蘇我氏は渡来人だと書かなかったのか、これは今ひとつハッキリしない。蘇我氏の祖が武内宿禰であり天の日槍であればスサノオの境遇とそっくりである。蘇我氏の祖は新羅に渡った倭人であり、脱解王の末裔であった、蘇我氏は一度ヤマト建国にのち没落していたが、6-7世紀に「我蘇り」と曾我から蘇我に書き換えた。ツノガアラシトは日本に鉄をもたらし、ヤマト建国の機運を一気に高めた功労者であった、これを藤原氏は書きたくなかった。

蘇我氏は東の勢力と接点を持っていた。東漢氏、入鹿の父は蝦夷、蘇我日向の別名は武蔵、蝦夷も武蔵も東を意味する。壬申の乱で大海人皇子を支えたのは蘇我氏であり、東国の軍団を率いて大友皇子を圧倒できたのも蘇我氏の勢力のおかげだった。蘇我氏が勢力を持ったのは越の国から来た継体天皇の出現後、継体天皇は史上初めて東からやってきた天皇であった。蘇我氏はヒスイにこだわったと言うがヒスイは越の国の名産品、8世紀の藤原政権は東の勢力を恐れたという。

検証が難しいためにほとんどが推測ではあるが、このような分析をしていくとひょんなことから真実の芽が発見できるかもしれない。
蘇我氏の正体 (新潮文庫)
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