3人のゲストの一人目は城山三郎、広田弘毅を描いた「落日燃ゆ」、井上準之助と浜口雄幸を描いた「男子の本懐」、城山三郎は対談の中で昭和初年に日本を襲った昭和大恐慌を語り、その時代に政治家として対応した井上や高橋是清に共感を示す。昭和初年度から満州事変にいたる1925-1931年に政治家の努力でその後の戦争は回避できたのだろうか。昭和2年に若槻礼次郎内閣は金解禁を念頭に1923年の関東大震災復興に対応すべく発行された震災手形の整理に着手する。民間金融機関が割り引いた震災手形を日銀が再割引するという手段であったが、決済した残りは2億6千万円、これは第一次大戦の好況から膨張してしまった経済が不況に立ち向かう抵抗を行った結果でもあった。鈴木商店や台湾銀行の問題はこうした一部でもあった。この期間に鈴木商店が投資した企業には播磨造船(現在のIHI)、神戸製鋼、帝人、豊年精油、日本製粉、大日本セメント(現在の太平洋セメント)などがあり日本政府としてもこうした経済発展の維持継続を願わざるをえない状況もあった。同時にあったのが世界の軍縮への対応と軍部からの不満である。第一次大戦の戦勝国側にいた日本がなぜ軍縮の煽りを食うのか、そこに出てきたのが北一輝が言い出したと言われる「統帥権干犯問題」である。「満州は日本の生命線」という石原莞爾の主張の原点はこの北一輝にあった。高橋是清とそれに連なる井上準之助はなんとかこの経済的問題を経済政策で対応しようとしていたが、それを阻んだのが軍部からの圧力であり、公債発行を日銀が行うことで景気刺激をするというのが高橋たちの政策だったが、日銀は国債を抱え込む一方となり金本位制度の危機が見えてくる。だからこそ高橋は軍事予算の膨張を許さないと頑張る。2-3年はカンフル剤として有効だった経済政策、しかし軍部の見方は「これからの国家運営は総力戦」、昭和恐慌の解決策は満州にしかない、というもの。軍部の中も統制経済を進める永田鉄山たちの統制派と天皇親政を主張する皇道派に分かれて、これが226事件への引き金となる。昭和11年の226事件で高橋是清が殺されたことが日本経済にとってそしてその他の政治家にとっての大きな分水嶺となった。軍部に対するブレーキ役がいなくなったこと、そして軍部からのテロへの恐怖である。そして城山三郎は昭和50年時点の日本との類似点を比較する。好況後の不況対応、保守党の低落傾向とその危機感によるファシズム台頭、異なるのは当時の日本の経済的孤立と現在の国際経済に日本がガッチリと組み込まれている点であると指摘する。心配なのは外部侵略するところがない現在の日本の閉塞感を国粋主義者がどのように利用するか、そして若者世代の失業者増加、そういう点だと松本清張は指摘している。平成日本との共通点はないだろうか。
五味川純平、こちらも学生時代にむさぼるように読んだ「人間の条件」「戦争と人間」の作者である。松本は軍事クーデターであった昭和三年の3月事件、10月事件、その後、昭和7年の515事件に非合法手段に訴えても改革を進めたいと思いつめた青年将校たちの危機感から話を始める。多くの青年将校たちの故郷である農村は窮乏にあえいでいた。特に東京の連隊では東北出身の将校たちが多く、このままでは軍隊の士気が上がらない。現実社会は閉塞的、だからこそそこには理想的な社会とそこに至る道筋を分かりやすく示す必要があった。唯一の理論的背景として彼らが支持し得たのは北一輝の「日本改造法案大綱」、これが書かれたのは大正9年、昭和9年とは国内情勢は大きく違っていた。しかし理想とそこへの道筋を示したい青年将校たちはその理論に飛びついたが、北一輝は民間人、軍内部に指導者が必要である。真崎甚三郎はその筆頭候補だった。青年将校蜂起の一報を聞いた真崎甚三郎は皇居に駆けつけるが天皇の激怒を知り態度を一変、青年将校の後ろ盾はいなくなった。226事件の最大の失敗は皇居占拠ができなかったこと、と松本は指摘、これが最初にできていればクーデターの成否は違う結果になっていた可能性もあると。もう一つの話題は戦争の目的。「満州が日本の生命線」だけを実現目標としていればこちらも太平洋戦争への拡大は抑止可能だったという見方を示す。清國を治めていた満族と漢民族との対立をつく、などという政治的判断ができる人物がいなかったことが太平洋戦争への拡大を招いたと。中国本体には手を出してはいけない、というのが石原莞爾の戦略だったはずののが、自分が作戦部長であった時に軍部は満州からさらに南進、南京、重慶、そして南部仏印進駐へと進んでしまう。石原は部下からの突き上げに対抗出来るだけの理論的支柱を示せなかったためだろうと五味川は推察している。もう一つの話題が日本軍の戦い方の稚拙さ。例として示されるのがノモンハン事件、圧倒的なソ連の機械化部隊に勢力の逐次投入しかできない関東軍、生産能力分析でもソ連には全く敵わないという報告が出ている。この時の判断を下したのは辻政信と服部卓四郎、五味川の分析によれば戦略資源の日本とアメリカの比率は74対1で全く敵わない相手と戦争を始めることになる。ノモンハン事件の反省はなぜ生かされなかったのか。言論が封殺されたことを五味川は上げる。226事件で朝日新聞社も攻撃され、戦争に反対する記事を書けなくなっていた。実は昭和天皇はこうした軍部に対して昭和前半に何回かの反対の意志を示している。最初は張作霖爆殺事件での田中義一叱責、226事件での断固討伐、太平洋戦争開戦前に杉山元が「3ヶ月で片付く」と説明した時に「お前は日中戦争でも3ヶ月といったではないか、太平洋は中国よりももっと広いぞ」と言ったこと、そしてポツダム宣言受諾。しかし昭和天皇がもっと本気で反対していたら太平洋戦争は止められたのかというと当時の状況から見てそれも疑問である。
3人目は鶴見俊輔、つい先日2015年7月に亡くなった。アメリカが原爆を使った理由、一つはアメリカにもドイツ系移民がいて白人種のドイツには使いたくなかった、ソ連発言権封じ込め、天皇制維持による占領日本の間接統治、しかしこのことを戦後表面化させたくないので、軍事力の消耗回避という表面的理由を説明用として用意した。憲法9条と天皇制維持は幣原内閣とマッカーサーの取引だった、という指摘。これは極東軍事裁判に天皇を出席させるかどうか、という取引でもあった。軍事的装備の完全解体を目指したマッカーサーはこの取引の乗る。その後朝鮮戦争では日本に再軍備を迫るアメリカにNOと言ったのは吉田茂。これを後押ししたのは当時の知日派グルー駐日大使。すでに岸信介は戦犯を解き放たれたいたので、岸が政権をとった後であれば日本は南ベトナムのゴ・ジン・ジェム政権のようになった可能性もあると鶴見。その後のレッドパージでは日本の共産化対策が強化され国鉄内部にはびこる共産化勢力としての労働組合つぶしが行われ下山事件、松川事件、三鷹事件と謎の事件が相次ぐ。当時の新聞では犯人はすべて共産分子と労組過激派と書かれ、これで燃え盛っていた国鉄労組のストライキはすっかり収まり首切りがスムーズに出来た。アメリカの動きはこうした事件と符合するというのが松本の主張。占領軍は日本を改革するため、憲法をはじめ農地解放、学制改革、財閥解体など日本人ではでき得ない変革を日本にもたらしたが、残されたものがあると。それは学閥と官僚制だった。アメリカが日本と安保体制を確立するためこの二つのアメリカにはないものを大いに利用したと。アメリカにもエリート校はあるが優秀な人材は官僚にはならない。日本では最優秀な人材が国立大学をでて官僚になる、アメリカの占領政策の継続の柱は安保体制、その目的達成に日本の官僚を利用したという指摘。今の日本で現存する自衛隊、ファシズムが台頭した時に民衆の力でそれを阻めるかどうか、その根本は民主政治の仕組み、それが基本的なことだというのが鶴見の主張。現在進行中の安保法制、大いに参考にすべき指摘ではないか。
後半は二つのエピソード、隠田の行者飯野吉三郎、そして桂太郎に寄り添ったお鯉が引き起こした「お鯉事件」。こちらの内容は省略する。
この対談が行われたのが1975年、戦後30年の節目であり今からちょうど40年前である。今月出されようとしているのは戦後70年の首相談話、過去の歴史が現代の日本人に投げかけているものはなにか、多くの日本人が振り返る必要があるのではないだろうか。
