明治維新後の日本では政治経済分野で特に国の形を変える様々な改革が行われた。明治を前期、中期、後期と分けると、前期は維新で活躍した維新三傑とも呼ばれる、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が活躍したが、廃藩置県、版籍奉還、徴兵制度、地租改革、などの大改革を実現しながらも、それぞれ戦死、暗殺、病死を遂げた。中期は、江戸時代末期締結の不平等条約の改正、国力増強、富国強兵のための殖産興業、国民国家の樹立のための議会設立、憲法制定、藩閥政治改革などがテーマ。活躍したのは維新二世代目とも言える、伊藤博文、井上馨、大隈重信、福沢諭吉、黒田清隆、五代友厚など。その頃起きたのが北海道開拓使払い下げ事件で、それが取引材料のようになり、積極財政から緊縮財政への転換と議会設立が図られたのが明治十四年の政変。大隈重信が下野し、払下げは中止、憲法制定と議院設立では伊藤博文が主導権を握る事になる。
王政復古から議会開設までの政治形態について、わたしたちはどの程度認識があるだろうか。まずは天皇のもとに総裁、議定、参与が置かれこれが立法を担う。行政官としては神祇官、会計官、軍務官、外国官、後に民部官が置かれ、新たな政権が発足。その後の版籍奉還後には太政官のもと、立法の右院左院、行政の正院(太政大臣、左右大臣、参議)が置かれ、その後1875年に元老院、1872-3年に各省、1885年に内閣制度と1890年に帝国議会が設立される。本書はこの時期の1880-90年頃の政治の動きを解説する一冊である。
藩がなくなり身分制度も解体されて、士族の反発は強かった。佐賀の乱、萩の乱など士族反乱が続き、1877年には近代日本での最大の内乱である西南戦争が勃発、西郷隆盛が戦死する。この頃には議会開設の運動が各地で起き始め、世論に押されるように伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆などの参議が漸進的議会設置に関する意見書を表明。しかし参議の大隈重信は立憲政体に関する急進的な意見を表明して保守的意見と対立、これが明治十四年の政変の引き金になる。
この頃起きたのが10年前より政府肝いりで勧めてきた北海道開拓事業で、当初より10年の期限付きで進められてきており、幕引きが企画されたが、払い下げ価格が投資額の10分の一以下となり、世論の批判を浴びた。画策したのが薩摩一派である黒田清隆と五代友厚であったため、藩閥政治の弊害であると批判が強まる。閣内では大隈重信が払い下げに反対、払い下げをマスコミにリークしたのは大隈との批判が強まり、閣内は大隈追放で意見がまとまる。その後、明治14年の御前会議で大隈政府追放、開拓使官有物払い下げ中止、9年後の国会開設が宣言された。
このゴタゴタで漁夫の利を得たのが伊藤博文で、イギリス流の議院内閣制ではなくドイツ流の立憲君主制の採用が既定路線となる。大隈の後釜は緊縮財政論者の松方正義で、一気に経済はデフレへと転換する。結果としてデフレ進行でスポンサーからの資金提供が激減した民権運動も下火となる。明治十四年の政変のシナリオを書いたのは井上毅と言われ、大隈重信の追放も彼の力が強かった。大隈重信は盟友福沢諭吉とともに私学の大学校を設立するが、井上毅からは目の敵とされ、政府からの圧力があり各方面で発言力を減殺される。私学への圧力は井上毅がこの世から去る日まで続いた。本書内容は以上。
この時代に樺太千島交換条約、小笠原諸島帰属問題、琉球処分、江華島事件と日朝修好条規、台湾出兵などの後の領土問題の原因となる出来事が続く。明治初年から中期のあたりのできごとに、水戸学、そして吉田松陰と尊王攘夷思想の亡霊が見える気がする。不平等条約改正と殖産興業からドイツ流立憲君主制と欽定憲法制定、そして臥薪嘗胆・富国強兵へと続く国家的テーマへの取り組みが日清・日露戦争へと向かう道筋を作り、そして後の対中戦争、太平洋戦争につながっていくのではないか。