意思による楽観のための読書日記

大阪的 井上章一 ***

多くの人が抱いている大阪のイメージは、テレビでよく特集している「大阪のおばちゃん、がめつい奴、浪速金融道」ではないだろうか。確かに「秘密のケンミンSHOW」で見るようなオバちゃんは道頓堀や新世界界隈ではよくいるタイプではあるし、そのあたりには「銭(じぇに)儲けがいっちゃん大事や」というオッチャンもいるが、北新地や梅田あたりにはそうではないシュッとした大阪人も多いハズ。本書はその歴史的背景やそう言われるに至った理由を解き明かす。

谷崎潤一郎の細雪に登場するお嬢様タイプは、元は船場あたりに暮らしていた上品な家族が、混み合ってきた町中を避けて阪神間の住宅地に移り住んだもの。それを80年前に東京から大阪に来た谷崎が観察して書いた物語である。しかしその少し前1911年に作家岩野泡鳴は大阪の女性像について「大阪の婦人は日本国中いずれの地方の婦人よりも快活である。おしゃべりなのもそれがためで、平民的で愛嬌があるのが特徴である」。つまり大阪も南北に長くて、南の方の浪速っ子、船場あたりで商売をしていた船場の商売人、北のほうで阪神間に暮らす家族や千里マダムとそれぞれは相当違う大阪人である。

テレビ大阪のUHF放送が始まったのが1982年、テレビ大阪は既存の在阪4局と互角には戦えないので、「まいどワイド30分」という夕方の番組で、主婦層を視聴者に想定して、商店街のたくましい女性に焦点を絞り「今夜のおかず」というコーナーを始めた。当時としては目新しかったこの企画では絵になる主婦を探し出すのに苦労したが、担当の沢田尚子は愉快げに見える人を見抜く目を養った。これが1980年台のこと。その後、大阪朝日放送や大阪毎日放送でもできるだけお金をかけずに面白くするため、素人を番組に取り込む企画を練った、それが「夫婦善哉」「新婚さんいらっしゃい」「プロポーズ大作戦」とつながる。しかし素人なら誰でも良い、というわけではなく、予選で面白いエピソードを引き出せそうな人選に力を入れた。それにサービス精神旺盛な関西人たちが応えた。こうした番組は全国的に放映されて、大阪にはあんなに面白い人たちがたくさんいる、という印象を日本国民に与えた。

大阪といえば阪神タイガースファン、と直結するようなイメージがあるが、1960年台の甲子園球場は読売戦以外は閑古鳥が鳴いていた。なぜならその頃のテレビの野球中継は読売巨人の試合ばかり、見ている子どもたちは関西でも巨人ファンになるしかない。1960年台に子供時代を過ごした関西人に聞いてみればわかるが、その頃は関西人の子どもたちも巨人軍の野球帽をかぶって学校に行っていたのである。それが兵庫県に放映されていたサンテレビの登場で、阪神戦がテレビ放映されると一変した。コンテンツ不足に苦労したサンテレビは放映権も格安の阪神戦を試合が終わる最後まで放送したのだ。やがてUHF放送で京都KBS、テレビ大阪との阪神戦放映連携が始まり関西地方で阪神ファンが激増、関西人の野球観を変えたのである。実際、関西圏以外でも同様の現象が起きてドラゴンズやカープファンが増えた。もう一つあったのはラジオの中村鋭一である。1971年から「おはようパーソナリティ」を務めた中村鋭一は、公平中立というそれまでの放送界の常識を破り、阪神を応援、勝った次の日には「六甲おろし」をラジオで歌った。ちなみに「六甲おろし」の命名者も中村鋭一である。

京の着倒れ大阪の食い倒れ、と言われるが、大阪の有名な食べ物は何ですか、と聞かれるとお好み焼きとたこ焼き、などと答える人も多い。これが本当に食い倒れの食べていた食べ物であろうか、といえばそんなはずはない。大阪は江戸時代から食い倒れの街と言われていたのは、海上交通の要衝であり商業の中心地であった大阪には全国から食材が集まり、金儲けをした商人たちはこぞって美味しいものを求めたから。内陸の京都よりもずっと新鮮な食にはこだわりがあった。食べ物好きが高じて借金がかさむほどになったのが、食い倒れの語源。たこ焼きやお好み焼きで借金するのは難しいだろう。それでも、今では東京から来た客人に美味しいものを食べてもらおうとすると京都にお連れしてしまう。美味しいものは京都にも大阪にもあるのだが、客人は祇園に行ってきた、一見さんは入れないお店で食事した、という経験を求めているからである。腕のたつ板前は大阪にもいるはずなのに、大阪人としては悔しいだろう。

「自由の女神」を町中で見る機会は大阪が日本一である。パチンコ屋の入り口、ホテルの屋上、キャバレー、そして温浴施設の玄関など。日本で最初に女神像を立てたのは生野区の源ヶ橋温泉、1930年台に玄関先に二体、狛犬を意識してか左右に分かれて立っている。女神が捧げる松明には温泉マークを、ここは「にゅうよく」する場所、というわけである。東大阪にはホワイトハウスそっくりの本社社屋をもったミカミ工業という会社がある。1984年に建設されたこの社屋の設計情報は合衆国領事館も協力、竣工式には副領事も出席したとか。自由の女神像もその殆どをこのミカミ工業が制作した。バブルの象徴のような女神像ではあるが、ビリケンさんだってもとを辿ればアメリカはシカゴ産、1908年のことで、日本には1912年に持ち込まれた。新世界には元はルナパーク園があったが、そこに飾られていた。1923年にルナパークが閉鎖されたときにビリケンは行方不明になり、1979年に再建された通天閣に往時を偲ぶために誂えたのが現在のビリケン像。アメリカでは20世紀中頃までは愛玩され、1940年の映画「哀愁」ではマスコットとして登場した。アメリカの先住民たちがベリケンと読んでいた存在を、シカゴの彫刻家が姿として表し、ビリケンとなった。

その他、ストリップ劇場やノーパン喫茶などエロの発信元は大阪、女性誌のモデルを務める女子大生美人率が高い阪神間にある神戸女学院や甲南女子大学、浪速のバルトークキダ・タローを生んだ音楽の都は大阪、古墳時代とは大仙陵古墳、百舌鳥古墳群がある河内時代、乙巳の変は飛鳥だが大化の改新の舞台は難波宮、太閤秀吉が政治を行ったのは大坂城なのだから安土桃山時代は本来は安土大坂時代、花登筺や今東光の影響が強い「金儲けとど根性」、などを解説している。本書内容はここまで。

筆者の井上章一は「京都ぎらい」の筆者でもある。京都生まれの井上は本当は京都びいきで、本書にもその傾向がしばしば現れる。京都人の読者にはこれが薄っすらと嬉しいのだが、大阪人も、おもろいオバちゃんの存在は否定しないし、京都は歴史があるかもしれんけど、大阪は元気があるしお高くとまってる京都とは違うねん、というこの感じが嫌いではないと思う。「褒めてくれるんやったら通天閣のテッペンにでも登るでえ」という大阪人、「関西人いうて大阪と一緒にせんといて」とおっしゃる現代的センスの良い神戸人、「大阪にはもっと頑張って欲しいんですよ、本当は」とか言っている京都人が相まって、この「関西圏三都の小競り合い」は永遠に続くのである。

大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた (幻冬舎新書)


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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