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意思による楽観のための読書日記

平将門と天慶の乱 乃至政彦 ***

天慶の乱が起きたのは939年、平安時代のこと。将門の生年は不明、若い頃の史料は見当たらないが、参照できるものは軍記「将門記」で、将門の動向を克明に伝えるのはこの一冊と言って良い。原本は失われ、作者は不明、制作年は天慶三年6月と本文最後に記されているが、タイトルは徳川時代になって仮につけられたもの。また、残された写本の冒頭は欠けているという。この時代にはまだ正史としての歴史書が編纂されなくなった時代であり、公家が日記を書く習慣もなかった。その他の手がかりとしては、将門記の原本全部を読んで亡失部分を抄出した文献があり、「将門略記」「歴代皇紀」「今昔物語」そして後世にまとめられた系図類も参照できる。

「将門記」は将門の言動も詳細に記されており、将門の陣営に属していた人物が作者と思われ、法話の色彩も強く、坂東の僧侶が書いたとする説が有力だが、将門の立場に寄り添う記述も多いとされる。将門記では関東エリアの武者たちを率いて都の朝廷勢力に立ち向かうまでは将門寄りだが、新皇を名乗るあたりからは将門への批判的姿勢も現れる。将門が京都に書き送った書状を掲載し、天皇や京都の寺社の動向にも詳しいことから、筆者に京都の文人貴族層も関与していた可能性も指摘される。

当時の日本列島では中央の朝廷に派遣された国司が受領と呼ばれ、任国の管理と統治に携わり、任期4年間は中央政府への貢納を果たせば自由な裁量が認められるため徴税、軍事代行を認められている受領の中には人縁や私財を肥やす者が増えていった。現地の古豪から選ばれた世襲の郡司の協力を得て、地方行政に携わる国司は地方の豪族たちと縁組を行い、任期終了後は土着して富豪領主となるものも多かった。

関東地方では、平安初期から受け入れられてきた渡来人の子孫が、得意分野である乗馬、製鉄、鉄器制作などを発展させて、勢力を伸ばしていた。こうした子孫たちが関東武士を形成していったと考えられ、西国では8世紀には姿を消していた竪穴式住居が坂東ではまだ現役でそれは11世紀ころまで続いたという。西国と坂東では建築物の発展に300年ほどの開きがあった。坂東の百姓の多くは中央貴族に従属する身分社会の下層に位置づけられ、労役に励み貢納品を送る生活を送っていたため、都に対する対抗心が、生活の中で芽生えていくことは自然であった。将門が生まれた時代はこのような時代から、百姓たちが自衛のために武器を持ち身を守るという武士の時代への変わり目に当たる頃であった。

将門は少年期には左大臣藤原忠平につかえる滝口の武士の一人。滝口の武士は897年の宇多天皇の時代に設置された天皇の随兵で蔵人所に属し、禁中、清涼殿周辺の昼夜警備に当たる令外官で、清涼殿にあった落ち水の地名が滝口であったことから名付けられた。当時の定員は10名程度で、17,8歳の若者の中から推挙され、射技の試験を受けて、蔵人の頭に審査を受けて採否が決められた。順調に行けば21歳には官位を叙されるはずだったが、何らかの理由により将門は無位無官のまま坂東に下向、故郷の下総では親類や近隣豪族から邪険にされ、彼らとの私闘に専念せざるを得ない状況となったと考えられる。

931年頃には、亡父良持の遺領をめぐり坂東における桓武平氏の族長格であたる伯父平国香、平良兼と争うようになる。無位無官のまま下向した、というより、こうした対立のため、都から坂東に帰り、地元の地盤を固める他なかったとも考えられる。関東平野には多くの未開拓地があったが、製鉄や広大な放牧地を必要とするのが当時の関東の地方豪族だった。古代の製鉄所はいずれも官牧の付属し、下総は日本最多の官製馬産地だった。792年に設けられた健児(こんでい)制では、騎乗して弓矢を扱う兵が養われ、常陸では200人、相模、武蔵、下総では150人、上野、下野、上総は100人の常備が定められた。こうした地方の開発領主が将門の父祖であり、こうした土地の所有を巡る争いに将門は巻き込まれていく。

坂東には嵯峨源氏一族と桓武平氏一族が勢力を競っており、将門が坂東に帰り着いた時代にも源平間、そして平氏、源氏同士でも領地争いは頻発していた。こうした中で、伯父たちの傍若無人な振る舞いが将門には我慢できなかったのではないかと考えられる。滝口の武士として射技に優れていた将門は無類の戦闘力を誇り、平氏一族の中でも頭角を現すのに時間はかからなかった。戦いに敗れた勢力は、平将門が坂東で軍勢を集めていると都の朝廷に訴え出て裁定を求める。しかし時の太政大臣は忠平、若い頃に仕えていたことから将門は上京して赦免を願い出ることで大赦を得る。

しかし坂東における桓武平氏一族間の争いは続き、将門は関東8カ国を平定。新皇を名乗る。西国では藤原純友の乱が起き、朝廷では東西での反乱ととらえられ、940年、忠平は将門を殺害するものへの褒章を定め、東山道、東海道に官符を下す。平貞盛、藤原秀郷は下野国で将門と戦い勝利。下総に逃げ帰った将門はその地で貞盛、秀郷に討ち取られる。将門の首は京都に届けられ東市の門外の樹に懸け群衆に披露された。941年には西国で藤原純友も殺害され東西の乱は平定されたが、これ以降、地方国司には軍事権が与えられ、個別の兵だった自衛組織の勢力は武士となりその力が強まるきっかけとなる。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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