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意思による楽観のための読書日記

宇治市史1 古代の歴史と景観 

製茶の歴史が知りたくて先日「宇治市史2 中世編」を手に取ったが、平等院や製茶以外にも、藤原氏の別荘の経緯やその別荘に付随する荘園がお茶畑になっていく歴史、茶師たちが、室町時代には幕府の支援で成長していく中で、戦国の戦いに被害を受けて、立ち上がり国一揆にまで発展していくさまを知った。そのストーリーの前にも、飛鳥や藤原京、奈良の都と平安京の中間地点としての宇治の働きがあり源氏物語・宇治十帖につながっていく、南山城の濫觴が知りたくて、古代編を手に取った。

古代、大陸・朝鮮半島と日本列島の間には人と文明のやり取りがあった。その経路は、大陸から海伝いに先島諸島、朝鮮半島経由で南と北九州に至る経路とサハリン、北海道経由の経路があった。当初の日本列島に住み着いた人類は狩猟・採取生活を送っていたと思われるが、徐々に大陸南部から稲作文化を持った人々が渡来してきた。その主な経路は、北九州ルート、出雲ルート、そして北陸ルートで、大和盆地には瀬戸内経由で西から、出雲・丹波経由で北西から、そして北陸、琵琶湖経由で北からもたらされたとされているが、越の国からのルートでは、主に琵琶湖→山科盆地→宇治→木津川沿い→大和盆地へともたらされた。最初の稲作は北九州地方ではじめられたとされ、その文化は西から東に800年ほどかけて関東平野にまで広がったとされる。その広がりは単に瀬戸内を経由してだけではなく、日本海の沿岸沿いに、そして新たに朝鮮半島から北陸地方に渡来してきた人達によって伝えられたとされる。

記紀記述には、アメノヒボコ伝説、都怒我阿羅斯等伝説などの形で記されており、稲作は豊作祈願と信仰、製鉄、灌漑、土木、家造り、製紙、竹細工、酒造などの文化を伴ってもたらされ、列島一帯に西日本から広がりを見せたという。日本書紀の応神伝説では、応神が近江への旅行の途中で菟道野(うじの)で菟道と葛野(かどの)の京都盆地を眺めて国誉めをしたことが記されている。登って眺めた丘が栗隈山(くりくまやま)で、宇治からヤマトへと抜ける古道がそこにあった。また、その旅程の途中で、宇治の木幡に入り、和邇氏の娘で宮主宅媛(みやぬしのやひめ)と結ばれ、生まれたのが菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)であり、仁徳の兄である。菟道稚郎子は儒教伝来とも深く繋がり、非の打ち所がない賢者として書紀に描かれたが、それは応神の死後に仁徳に皇位を譲ることへの伏線として描かれたとされる。実際には惨たらしい皇位継承闘いがあったからこそ、美しい兄弟による譲り合いの物語を書く必要があった、とも解釈できる。

応神に続く仁徳、反正、允恭、安康、雄略は「倭の五王」時代であり、河内地方に古墳群を持つことで有名。つまり、朝鮮半島への進出を狙うヤマト政権が、大陸の冊封体制を利用して、瀬戸内から大和盆地に来る使者に立派な古墳を見てもらい、朝鮮半島の支配権を認めてもらおうという努力を継続していた時代。河内から大和盆地へ至る経路とともに、応神は琵琶湖に勢力を広げていた息長氏や和邇氏ともつながりを持ち、半島とも繋がりを持っていたとされる。宇治は、この時代に越の国経由で大和盆地に至る重要な交通の要衝であった。

この時代に先立つ王朝は三輪山麓一帯に勢力を伸ばしていた「三輪王朝」とされる崇神王朝、その勢力により政権を追われたその前の開化朝の勢力があり、その崇神、垂仁朝の勢力も、その後の景行、成務とは異なり、大和盆地以外に勢力を伸ばして地方への勢力拡大を目指したとされる。つまり、新たな王朝を打ち立てた応神も強固な政権基盤はなく、皇后は崇神系、菟道稚郎子の母は和邇氏、葛城氏の女性も娶っており、多くの婚姻関係を地方の豪族と結ぶことで勢力拡大、安定に務める時期だった。

強力な王であった応神の死は、兄弟や親族、そして他の豪族を巻き込んだ王位継承争いがあったと考えられる。その際、宇治に勢力を持ち、田畑を開墾していたとされる宇治氏とも関係強化に迫られ、和邇氏の後押しもあり、実際には菟道稚郎子は皇位に就いたのではないかとも推測されている。記紀記述には応神死後に空位の期間があり、宇治の地が政治の中心になった時期があったが、記紀編纂者はそれを認めることができない事情があった。次に即位した仁徳は和邇氏の娘のうちの二人と婚姻関係を持ったとされ、仁徳朝は和邇氏と息長氏が支えた宇治王朝との和解を目指した。その後の倭の五王の河内王朝の動きを見ると、この和解は成功したと見える。

倭の五王のあと、武烈時代に適切な皇位継承者が居なくなり、越の国から継体を担ぎ出したのが大伴金村。その時代の反対勢力が蘇我氏で、継体は大和盆地にも入れず、南山城地域で留まらざるを得なくなる。しかし宇治の地が選ばれず、綴喜の宮、乙訓の宮の記録があるのは、宇治に根拠を持つ豪族とヤマト政権、更には継体を担いだ勢力との間に緊張関係があったことが推測できる。この時代の地方豪族の反乱の記録から5-6世紀の国内勢力争いとヤマト政権による統一の動きを知ることができる。吉備の田狭(たさ)の乱、その後の継体時代の筑紫磐井の乱は新羅との争いが背景に見える。宇治に勢力を持った豪族の痕跡は、車塚などの久津川古墳群、木幡の二子塚古墳などの宇治川東部古墳群があり、後に宇治宿禰となる宇治氏は、宇治から山科盆地までを支配した地方国司であったと考えられる。

宇治の地には延喜式に記載のある式内社神社が多く点在する。宇治神社2座、許波多(こはた)神社3座(木幡、岡屋、五ケ庄)、宇治橋のたもとにある彼方神社、城陽の水主神社、小倉の巨椋神社、大久保の旦椋(あさくら)神社などである。旦椋神社は校倉(あぜくら)に由来する説がある。縣祭りで有名な宇治蓮華にある縣神社は宇治の地がヤマト政権により縣と制定された宇治県であり、その地に祀られた神社だと推測できる。許波多神社は当初五ケ庄柳山に設置されたが、そこは山科から宇治を経由して大和盆地に至る古道「木幡の道」に沿った場所である。後の「以仁王の挙兵」で頼政が大津から奈良に移動した「頼政道」と言われるのもこの古道であった。許波多神社はその後、木幡と岡屋津に移動することになる。ちなみに、木幡は山科盆地にあった和邇氏支配の「許(こ)」の国の南端にある巨椋池に面した津に付けられた地名とされ、許の国の端が由来とする説が有力。

宇治神社が上下二社となっているのは、祀られた菟道稚郎子と応神の親子とされるが、その八幡信仰自体は母子信仰であり、宮主宅媛とその子菟道稚郎子であったとも考えられる。彼方(おちかた)神社は宇治川が山地を流れた末に宇治の地に沿った巨椋池に「落ち込む」場所に設けられた水信仰と考えられる。旧宇治郡であった式内社には石田の天穂日命神社がある。万葉人が旅の安全を祈った神社で木幡山越えの地にあったとも言われる。神明神社は宇治神明で、社伝によれば平安遷都に際して伊勢神宮の神を勧請したとされるが、史料記録によれば遅くとも室町時代には神明社がこの地にあったと確認できる。伊勢神宮を模した神明造りであり、山田大路氏、宇治氏が勧請のスポンサーとなったとされる。

万葉集などでは、古道に沿った宇治は多くの歌に詠まれた。宇治の枕詞は「ちはやぶる」、646年に宇治橋が設営されるまでは渡しによる渡河が必要だったので「宇治の渡し」、南西から東に向かって宇治川を渡るときに見えた「朝日山」、魚を獲った「網代」、水車が珍しかった平安時代には「水車、車」などが詠まれた。古代に歌われた地名では木津川が17首、宇治が25首、石田が4首、木幡が3首見える。

平将門の乱鎮圧を命じられた藤原忠文は宇治に邸宅を持っていたので「宇治民部卿」と呼ばれたが、その場所から富家殿とも呼ばれた。「富家(ふけ)」は五ケ庄、岡屋のあたりで、地名としては宇治川対岸の「ふけまえ」に残る。忠文は討伐軍として東に向かったが、将門は到着前に進軍途中で貞盛、秀郷により滅ぼされたため、手柄を上げるには至らなかった。報奨を受け取ることを期待していたが叶わず、無報奨を決めた太政大臣の息子忠平を恨んで死んだ。その恨みを鎮めるために末多武利(又振)神社が設けられる。宇治が王朝文化の一つの中心地となるのはその後の藤原氏繁栄がある摂関政治の時代で、冬嗣の跡を継いだ良房、基経、忠平、師輔、兼家、道長、頼通へと続いていく。道長は兼家、道隆の墓所があった木幡の地に浄妙寺を立て、藤原氏の菩提寺とする。現在では宮内庁管轄の宇治陵とされる37の墓地は、明治になって皇室関係者20人の墓地ともされたが、もとは基経から頼通に至る藤原氏ゆかりの人たちの墓所であった。明確に史料が残るのは35号時平、36号基経の墓である。

淀川水系には、水運のための港(津)が多く設けられた。大阪湾の入り口には難波津、天王山あたりには山崎津、淀津、巨椋池東岸で宇治川が注ぎ込む宇治津、そして宇治の国衙があった岡屋津、桂川・鴨川方面には鳥羽津で、その桂川上流には大井津、木津川の平城京寄りに泉木津、そして琵琶湖に注ぎ込む勢多津と大津である。津の周りには出荷と入荷の利便性から荘園が成立し、水運、陸運のための人夫が集まり、荘園への課税に農産物で応えられない小作者は労役を提供する格好の場所となった。河川は現代で言えば鉄道網、高速道路網であった。宇治川の流路は後に秀吉により変更されて現代に至っているが、古代には主流は槇島の南で西に折れ、巨椋神社の北方で巨椋池に注ぎ込んでおり、支流が岡屋、六地蔵、山科川、桃山南へと続いていた。宇治津はその主流より上流から現在の宇治橋の間に存在したと推定される。古代から江戸時代の萬福寺造営まで、その原材料である材木運搬には淀川水系と各地の津が活用され、そこには多くの労役と付随する物資運搬があったことが忍ばれる。

隆盛を誇った道長も、死に臨んでは極楽浄土への思いを強め、阿弥陀と浄土教への帰依と、平等院鳳凰堂建設へとつながっていく。阿弥陀浄土信仰は天台浄土教学の比叡山延暦寺を中心に広がりを見せる。阿弥陀信仰を発展させたのは往生要集をまとめた恵心僧都源信であり、宇治では恵心院がその思想を伝える。源氏物語にも描かれた優美な世界の裏側には、権力奪取のための謀略と裏切りがあり、末法思想はそうした貴族社会に浄土教、阿弥陀信仰を広める背景となる。成功した道長でさえその反動たる無惨な死後の世界を恐れた。宇治十帖の最初の巻が橋姫。ひと待ちのシンボルとして描かれた橋姫も、伝説では嫉妬に狂い、鬼となって夫を呪う死後の亡霊であった。現在では宇治橋のたもとにある橋姫神社も、その裏側には浄土信仰を望むような死後の世界を恐れる思想があるのかもしれない。本書内容は以上。

大層立派な市史、読まずに本棚に飾っておくにはもったいない。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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