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意思による楽観のための読書日記

宇治市史2 中世の歴史と景観 ****

宇治の茶業の歴史を知りたくて手に取った。初版2500部印刷されたという宇治市史の第二巻は本文724Pの大書で中世地図が付録しており、昭和49年発刊。中世編で年代的には治承・寿永の乱あたりから関ヶ原の戦いあたりまでを宇治に関する歴史書として編纂されている。地方史は全国各地で編纂され発刊されていると思うが、宇治は地理的に古代から奈良と京に挟まれた交通の要衝であったため、歴史的事象には事欠かない。特に古代には日本海・越の国から琵琶湖・大津・山科経由で奈良盆地に向かう道筋にあたっていた。平城京から平安京に遷都が行われたあたりからは、奈良から京に向かう大和街道の要衝となり、奈良に郷愁を抱く貴族たちの別業地となる。南山城から大和盆地への南北の通行のためには、宇治川を渡ることが最も近道で、現在の宇治橋の場所に、646年には日本で最初の大橋が架橋されたが、中世の戦いの場面では度々破壊された。

道長・頼通による木幡・浄妙寺建設により、歴史的に宇治川東岸は藤原氏の領地となり、その後も近衛家の荘園地となる。本書対象時代には、以仁王の挙兵と頼政の大津からの敗走、義仲討伐における宇治川の先陣争い、承久の乱における宇治川の戦いなどの戦いの舞台となる。荘園地としては、摂関政治時代の近衛家に加え、聖護院、醍醐寺、平等院などの寺社、そして足利将軍家、赤松家、京極家など守護の領家が入り込み、境界争いが絶えない。室町時代には義満による茶業促進による発展があり、産業促進が進むが、応仁の乱では再び戦闘に巻き込まれ蹂躙されたため、西軍・東軍いずれからも距離を置く中立を宣言、結果として山城国一揆36人衆による自立宣言に至る。自立は8年という短期間で終わりを見るが、信長、秀吉、そして家康にも茶業は保護される。秀吉による宇治川と大和路の付け替え後には、南北主要交通経路からは外れることになるも、江戸幕府による茶業保護により町が廃れることはなかった。

社寺に関しては平等院、三室戸寺などが紹介されるが、現代には形跡が見当たらない槇島山荘、岡屋殿、浄妙寺、木幡の関、富家殿、旧許波多神社などの場所が示される。中世の茶師には江戸時代に主流となる上林以前、4つの系統が存在した。第一は宇治神社に奉仕する神官。そして第二の茶師の柱となる宇治の西栗隈山にある神明社は、伊勢から内宮・外宮が勧請され今神明とも呼ばれる、伝承によれば神人山田大路氏、宇治大路氏は茶師の系列となる。第三が白川金色院の僧侶からなる。第4が平等院公人と呼ばれた僧侶たち。こうした系列につながる富豪や有力者たちが、将軍家や守護の保護を得て発展する。

そもそも茶は鎌倉時代に栄西の弟子、明恵により宇治に伝えられ、木幡中村の西浦、現在の萬福寺前の駒蹄影園(こまのあしかげえん)が初期の茶園として形成された。また、宇治は川の両岸に町が形成される対向集落として形成された町であり、宇治神社、宇治上神社がその氏子により支えられる町でもあった。神社の核として支えた町割りが壱番から十番までの「保」として町の中心部を形成。今でも地名として残っている。室町時代の茶業は湧水の場所と地形から場所が特定され、ほぼその壱番から十番の町割りに沿って室町時代には7つの銘茶園が存在した。琵琶、森、宇文字、祝(ほふり)、川下、奥山、朝日であり、それぞれが将軍家、摂関家、守護家などを本所とする荘園として存在していた。その他の荘園では、富家殿(五ケ庄)、羽戸院、巨椋荘、伊勢田郷、笠取東、西、炭山、池尾などの場所が特定されている。

茶師の中でも森家と上林家が乱世を生き延びる。茶業変化の契機となるのは茶業開発と保護を勧めてきた足利将軍家と織田信長の関係である。当初、将軍義昭を奉戴するかに見えた信長は、その後対立、槇島城に閉じこもる義昭を滅ぼした。茶師の保護者であった将軍家の側に回ったのが7銘園であったが、その後は信長と敵対したため、義昭を支えようとした銘園主は道連れとなり没落、宇治における支配力を失う。しかし近衛家の口添えで森家だけは信長に取り入り生き残る。森家はもともと平等院の報恩院の森坊と称された坊官であった。古くから近衛家に茶を献上、近衛房嗣・政家親子が森坊に居住したこともあった。木幡にも森坊の記録があり、森彦右衛門は、信長からは御茶頭取として知行300石を与えられた。その頃秀吉が、千利休と同時に丹波から出てきた上林を推薦する。上林氏は清和源氏の頼季流で、一族の一部が三河で家康に仕えて製茶を指導していた。宇治に出てきてからは、信長の松永久秀攻撃の道案内を務めた縁から森家にならんで御茶頭取となり宇治に150石知行を与えられる。こうして天正の頃には、森家と上林家が茶師の二大勢力として並び立つ。ところが本能寺の変で事態は一変、秀吉が推薦する千利休と上林家が一気に頭をもたげた。さらに本能寺の変の時、木津の渡しを案内したのも上林で、後年、江戸時代に上林家と徳川家が深いつながりを持つに至る。

城郭については、槇島城をはじめ中世宇治には多くの施設が建設されたに違いないが、可視的な遺構は見られない。戦乱と秀吉による大工事が景観を一変させた可能性がある。中世にも残っていたのが環濠集落で、古代からの条里制の名残をとどめ、今でも安田、伊勢田、大久保などにその遺構が見られる。太閤堤建設は宇治川の流路を変更させ、槇島を輪中とし、豊後橋(今の観月橋)から巨椋池を南北に貫通する新大和路とする大きな土木工事であった。そのため、巨椋池は大きくその形を変え、茶業も影響を受け、槇島、五ケ庄、木幡近辺は度々洪水の災厄に見舞われる。巨椋池は昭和になり干拓が進められ、昭和39年の天ヶ瀬ダム建設によりようやく水害被害はなくなった。

猿楽は室町時代には宇治に4座があり、京や奈良、大坂にも出演するほど栄えたが、その後は京の出雲の阿国歌舞伎などに押されて衰退する。伏見指月城は地震で倒壊、その直後から秀吉肝いりで伏見城は再建されるが、秀吉逝去により、家康に再興が引き継がれた。しかし、三成による伏見城攻撃があり再び焼失。関ヶ原の戦い、大阪夏の陣などを経て、伏見城の位置づけが変化、家康は伏見城を取り壊し、その遺構は二条城、大坂城、福山城、御香宮、高台寺、醍醐寺などに桃山風建築として移築されたという。

この桃山、近世までは木幡山と呼ばれてきた。京から宇治に至る経路には、鳥羽から巨椋池を船で岡屋津、宇治津に向かい場合と、大亀谷から木幡山を越える場合があったが、多くの物流は陸路だったため、木幡山には関所が設けられ関銭収入を上げていた。京の七口と呼ばれる出入り口に加え、木幡の関がもう一つの出入り口であった。清盛はその出入り口の安寧を祈願して六地蔵を設けたことから、その地名が残っている。家康が取り壊した伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから、その地木幡山が桃山と呼ばれ、その場所は明治天皇陵となり、その時代や芸術文化を安土桃山時代・文化と呼ぶようになる。本書内容は以上。

本書シリーズは大変な労作で、第二巻のこの一冊を見ても、本文724Pの大書で中世地図が付録。地方史書としては、大変価値のある書物だと思う。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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