意思による楽観のための読書日記

「報道されないこと」にある真実

私たちの多くは、テレビや新聞による報道を通して世界や日本で起きている事件や出来事を知りますが、その前提は「事実が報道されている」ことであり、これが報道する側の使命であり責任だと思います。逆に、報道を通して世の中の出来事を知る側としてしなければならないことは、「事実が報道されているのか」ということを確認することだと思います。しかし「事実が報道されている」ことを確認することは簡単ではありません。報道されていることはすべて事実であっても、事実のすべてを報道しているわけではないからであり、その取捨選択においては報道する側の意志が介入するからです。

マスコミが報道は、読み手が期待する記事を書きたい、読まれる記事でなければ記事にはならない、テレビで言えば視聴率が稼げない番組は続かない、という報道機関の成り立ちに関する性格に起因しています。

作家の百田尚樹さんは、特攻隊員を描いた感動的名作「永遠のゼロ」でマスコミの戦争責任について、登場人物の口を借りて次のように表現しています。『日露戦争後のポーツマス講和条約を巡って「日本の弱腰外交」という論陣を張った。その後中国・満州権益や海軍軍縮などについてもマスコミが世論リーダーになり日本全体が戦争賛美へ向かった結果、軍部が独走し満州事変に突入したときには、もう誰もその勢いを止められなかった。マスコミの戦争責任は重い。』この時代に世界の動きを客観的に捉えることができた日本人は非常に少なく、世論も今よりもずっと単純化されたものだったかもしれません。そして今とは世界の情勢も大きく異なりますが、世論をリードする存在である、というマスコミの性格に変わりはないと思います。

自らも海軍練習生として軍隊経験のある城山三郎さんが著書「城山三郎が娘に語った戦争」で娘の井上紀子さんに繰り返し語ったことは、戦争中であろうと平和であろうと世の中で起きていることや報道されていることを聞いて判断する場合には「自分の頭で考えること」だったそうです。「全員戦死」や「全軍撤退」という事実を報道する際にも「玉砕」や「転進」という新語を生み出してまで当時の大本営は国民から真実を覆い隠そうとしました。城山さんが、2001年個人情報保護法が制定されたときに、報道や表現の自由が損なわれるのではないか、と懸念を表明し先頭に立って時の小泉首相に迫ったのは、法律の名前に惑わされてはならないという、こうした自らの経験があるからだと思います。

数年前に、報道機関を傘下に持つ企業への投資家グループによる大口投資があったときに、『言論、出版、報道機関を、ファイナンスによる金もうけの手段と考えるべきではない』という批判が起こりましたが、儲からないことは切り捨てていく、という姿勢で報道に臨むとすれば「事実を報道する」使命と責任を果たせないことにつながることを報道機関自身がいつも認識する必要がある、という警告だと思います。一方、権力による報道機関の利用についても常にチェックが必要です。海外や日本でも歴史上、政変やクーデターが起きると、権力を持ちたい側は、報道機関を占拠、弾圧や検閲を行いますが、多くの国では民主主義が定着する歴史の中で言論・報道の自由は守られてきたことも私たちは忘れてはなりません。

太平洋戦争後制定された日本国憲法では言論の自由について次のように記述されています。
第21条[集会・結社・表現の自由、通信の秘密]
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

報道されていることと報道されていないことがある、ということを知れば、憲法で保障されている言論の自由を本当に守るためには、報道する側が意識し努力するだけではなく、報道を聞いたり読んだりする私たちも、真実が報道されているのだろうか、という見方をすることが重要だと思います。

企業で考えれば、株主総会やIRの場で企業が公表する情報にもこうした裏表が存在するケースもあるのです。公表しなかったことに関して、後で新たな事実が明らかになったときに、「あのときに公表しなかった理由はなんですか」という質問に答えられないようなことがあれば企業への信頼は下がってしまうでしょう。例えば、大相撲報道で問題とされていた点はここにあると思います。「なぜあの時に言えなかったのですか」「反社会的勢力とのつながりはないのですね」「一般社会で問題とされることを他にも見逃しているのではないですか」等。報道されたこと、そして今後明らかになること、こうした中で大相撲社会への社会的信頼が評価されることになるでしょう。

選挙運動でインターネットをもっと活用できるのではないか、という議論がありますが、コミュニケーション向上のために活用できるものは広く使うべき、という視点と同時に、それらが悪用されることがないか、情報セキュリティ上の問題はないのか、情報格差拡大にはならないのか、情報の信憑性は確保できるのか、などの多様な議論と検証が必要だと感じます。

今後、テレビやインターネットも含めたメディアの融合が進む中では、新聞・放送・出版などという組織体でなくても情報伝達が容易にできるという利点があります。テレビや新聞社の場合に「事実が報道されているか」を確認する際には、その会社自身の信頼性はある程度担保されていると思いますが、インターネットの場合には更なる吟味が必要です。インターネットを通しては、多種多様な、ニュースの価値や品質もばらばらで保証もされていないようなものが並列して伝えられることも想定できるからです。言論・出版・報道機関が中立性を保ち、その使命と責任を果たせるかという視点が重要であることとあわせて、情報を開示する側の企業や組織体も「公開すべき情報を誠実にオープンしているか」「開示情報は正しくステークホルダーに伝わっているか」をチェックする必要があります。そして、伝えられる側の市民としての私たちも「真実が報道されているか」「報道・開示されていないことはなにか」に常に目を向けていることが、事実を伝え、真実を知る上で重要だと思います。

城山三郎さんの言葉「自分の頭で考えること」、忘れないようにしたいと思います。
城山三郎が娘に語った戦争 (朝日文庫)
永遠の0 (講談社文庫)

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