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意思による楽観のための読書日記

故郷忘れじがたく候 司馬遼太郎 ****

三つの中編。「故郷忘れじがたき候」、は秀吉が朝鮮に攻め入って、秀吉没後逃げ帰るに際して島津氏が連れ帰った陶工たちがいた。その末裔は九州薩摩の山中に故郷の風景を思い浮かべ、東シナ海対岸にあるはずの朝鮮半島の方向に開けた土地、苗代川に住み着いた。薩摩藩はその後、陶工を武家として遇し、姓名を朝鮮時代そのままに受け継いだ。そのうちの一人が沈寿官、370年前に朝鮮南原城で捕らえられ拉致された。同じ村には朴、鄭、金、白、崔、廬、陳、丁、何、朱、伸、李、林、車、などの17氏が朝鮮風俗そのままに暮らしていたという。

沈寿官氏が韓国を訪問したときには大歓迎を受けた。ソウル大学で自分の生い立ちと先祖たちの薩摩藩で受けた処遇、そして日本での現在を語った。講演の最後に、「今の韓国人は36年の日本による植民地支配を言うが、それを言い過ぎることはいかがなものか、前へと進むことが重要ではないか。36年を言うなら私は370年を語らねばならなくなる」と語ったという。そしてその後当時の朴大統領と面会、当時日本人として大統領と単独面会したのは大変珍しいことだった。大統領は沈氏が捕らえられた場所を地図で指さし晩餐をともにした。沈氏は翌日南原城を訪問、ここでも大歓迎を受けた。深く祖先のことを思い、祖先の墓参りをしたという。

「斬殺」。明治維新の時、薩長が京都をおさえ、江戸には彰義隊がまだ戦う前だった時点で、新政府は200名の兵隊を表面上朝廷側に付いた仙台藩に3人の公卿を頭に派遣、会津攻めを要請した。参謀としては長州人の世羅修蔵、もう一人は薩摩人の大山格之助。大藩である仙台は未だに旧江戸時代の空気が色濃く漂い、長州の足軽風情の侍大将としか見えない世羅をあざけった。しかし表面上は公卿3名をあがめ奉り、会津攻撃をなんとか避けたい、しかし表面上逆らうことはできない、という時間稼ぎをしていた。裏では奥羽列藩同盟結成を働きかけ、薩長なにするものぞ、という空気が東北には満ちあふれていた。

仙台藩にも勤王派はいたのだが、この時点では勢力を削がれ、世羅某をいつ斬って捨てるかが議論されていたのだが、そのことを世良自身は気がつかない。結局世羅は江戸への援軍要請の旅途上に捕らえられ斬首される。

「胡桃に酒」は明智光秀の三女たまが細川幽斎の息子忠興に輿入れする場面から始まる。たまは後のガラシャ夫人、美人で有名、忠興は一目で惚れてしまい、留守ちゅう他の男がたまに近づかないように必死で幽閉する。たまの父親は光秀、主君の信長を討ったときには、幽斎は忠興にたまを離縁するようにアドバイス、たまを丹波の山奥に文字通り実際に幽閉してしまう。その後秀吉が天下を取り、たまの幽閉を解き、大阪玉造に御殿をつくり住まわせるように忠興に命ずる。

秀吉の女房狩りは有名であった。忠興はそれが我慢できないが、九州征伐、はては朝鮮征伐には出陣せねばならない。たまは留守居である。忠興は朝鮮からたまに贈り物をする。その中の一つが胡桃割りと葡萄酒である。胡桃に酒を飲んだたまは腹痛を起こす。胡桃に酒は「食べ合わせ」、たまは忠興と自分がまさに食べ合わせだった、と気がつく。たまの子侍従の誘いでたまもキリシタンの洗礼を受けることを決意、忠興が出陣中に受洗してしまう。忠興は怒るがたまの心は変わらない。忠興の嫉妬と独占欲にたまも嫌気がさしていた。しかし秀吉は死に、東北の伊達が反乱を起こすとの知らせに家康が軍勢を率いて立ち向かう。その間に石田三成が大阪で立つ。大阪にいる各武将の家族は三成の人質になる。たまは人質となるよりも死を選ぶ。

故郷忘じがたく候 (文春文庫)

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