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意思による楽観のための読書日記

古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎 古川順弘 ***

3-4世紀にかけて、奈良の桜井市にある纏向遺跡あたりにヤマト王権の中心地があったとされている。その盟主が大王家であり、王権を盛り立てていたと考えられるのがその地方に群雄割拠していた豪族だといわれている。豪族たちの合議制による政権運営は7世紀、乙巳の変から大化の改新へと続く時代まで続いた。本書で取り上げられたのは、葛城、物部、忌部、蘇我、中臣、大伴、吉備、出雲、上毛野、秦の10氏であるが、そのほかにも天皇家に妃を多く出した尾張氏、和邇氏、琵琶湖周辺を本拠とした息長氏、紀国の国造だった紀氏、賀茂神社の賀茂氏、出雲系の出雲氏、古墳築造を担った土師氏、海部族の安曇氏など多くの豪族が地方にもあった。

豪族を示す名称には氏と姓(ウジとカバネ)があり、氏は居住地や本拠地の地名や職掌に多く由来、地名によった事例が蘇我氏、平郡氏、職掌によったのが大伴氏、物部氏となる。氏は大王に与えられるもので、自由に変更はできなかった。氏のトップが氏の守で、メンバーが氏人、部民となる。姓は各氏に対して大王の名のもとに与えられた称号であり、氏に続いて使われ、いわばランキングとして一族に世襲された。最高位の臣には平郡、葛城、巨勢、蘇我、吉備、出雲があり、つづく連には大伴、物部、中臣、土師があった。さらに君には筑紫、上毛野、三輪、そして直(あたい)に東漢(やまとのあや)、倭(やまと)、造(みやつこ)には馬飼、秦、首(おびと)に西文(かわちのあや)、忌部(いんべ)がある。蘇我臣馬子、物部連守屋などと使われた。政権の中枢を担ったのが臣と連となる。氏姓制度は5世紀から7世紀ごろまで続くが、天武帝が八色の姓を制定、数多くのかばねを真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の8種に再編成することで、長く続いてきた豪族による合議制も終焉を迎えた。

葛城山の麓に盤踞した大王家最大のライバルだったのが葛城氏、大王家に先立って大和平野に勢力を張っていた物部氏、大王の親衛隊ともいえる軍事氏族大伴氏、出自が不明な蘇我氏、宮廷神道を支えた祭祀氏族の忌部氏、ヤマト王権を脅かした瀬戸内の大豪族吉備氏、大国主を祀り続ける出雲大社の宮司家である出雲氏、朝鮮半島にも渡った東国の勇者集団上毛野氏、始皇帝の末裔だと自称し、土木、養蚕、灌漑、酒造などに貢献していた渡来系秦氏、多様な氏族の血脈をつなぎ、大化の改新以降、天皇家への后妃を輩出し、藤原一族となった結果、古代豪族の覇者となった中臣氏。本書ではこれらの10氏族の由来や歴史を紹介する。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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