てんちゃんのビックリ箱

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虎の画家 大橋翠石展感想

2020-09-18 14:49:48 | 美術館・博物館 等



展覧会名:明治の金メダリスト 大橋翠石 〜虎を極めた孤高の画家〜
場所:岐阜県美術館
期間:2020.07.23~09.13
訪問日:9月09日
惹句:虎を極めた孤高の作家
一度見たら忘れられない
構成:第1章:学画と模索~大垣時代前期
   第2章:独自の虎絵の画風確立
   第3章:闘病と画風昂揚~神戸時代前期
   第4章:小仙洞での日々と画風円熟~神戸時代後期


1.はじめに
 
 最初のポスターは、岐阜美術館で先日まで開催されていた大橋翠石の展覧会ポスターである。描かれている髭や体毛などから、生きているような非常にリアルな迫力を感じる。
 
 前回 愛知県美術館の日本画を紹介した時、明治の日本の画家は洋画を越えた日本画を目指したと書いたが、それを国際的に評価してもらうべく1900年のパリ万国博の美術展示に、洋画や彫刻等とともに出展した。その頃の日本の高名なもしくは野望を持った美術家が揃っていたが、絵画部門で金牌を受けたのは大橋翠石のみだった。橋本雅邦・川端玉章・今尾景年・黒田清輝が銀牌、横山大観・竹内栖鳳・下村観山が銅牌、上村松園・荒木十畝・和田英作が褒状)  
大橋翠石は岐阜の画家で日本画の主流である東京と京都の画家集団とは離れた存在であった。

その後、1904年のセントルイス万博、1910年の日英博覧会でも金牌を取得し、画家としての地位は不動のものとなった。これらの絵は現存していないが、すべて非常に写実的な虎の絵であった。
 先日私たち夫婦が岐阜に行って1時間半前後の余裕ができたが、この展覧会があるのを見つけ鑑賞に行った。


2.展示内容

第1章 学画と模索~大垣時代前期  
1900年までの時代の、一気に世界へ躍り出る前までが区分されている。
彼は岐阜の生まれだが上京し、渡辺崋山の子供の小崋に南画(文人画)の手ほどきを得て、特に写生に徹し研究していた。しかし、師および母の
死によって、帰郷した。研鑽の中で描いた猫の写実のすばらしさに虎を書いたらといわれ、虎を描き出した。



<仔猫の図>
(とても可愛らしい仔猫たちが描かれている。花と組み合わさって装飾的に描かれているので後期のものかもしれないが、仔猫への優しい視線と高い写実能力がわかる)


それまでの虎の絵は、虎の実物を見ずに中国からの伝承や大型の猫、また虎の骨格から描いていた。彼は見世物の虎を一生懸命に写生することで技術レベルは向上した。



<虎図屏風>
(この絵は期限付き展示のため観ることは出来なかったが、博覧会前の虎の絵の実力向上の例として、紹介)


その成果が国内で認められ1895年に国内博覧会で賞を取り、そして1900年にパリ万国博で金牌を得ることになった。残念ながら彼が外国で表彰を受けた写真は現存していない。

 
第2章 独自の虎絵の画風確立~大垣時代後期
 1900年から1910年の作品が示されている。この時期はパリ万博から日英博覧会の間であり、その間の海外の高評価で、国内で確固たる地位を得た時期にあたる。
 この頃は海外だけでなく、天皇への献上などの栄誉も得た。



<明治天皇献上作大下図>
(明治天皇への献上品の下絵。振り返った姿が肩から尻尾の先までリアルで、よく観察したものがちゃんと描かれていると思う。)




<悲憤>
(虎の子をさらった大鷲と、それを追いかける夫婦の虎を描いている。大鷲が様式的な姿なのに、虎の自然で滑らかな動きが好対照。)



第3章:闘病と画風昂揚~神戸時代前期
 1912年から1928年の間で、結核の治療のために神戸に引っ越したら、関西あげての後援を受け、主題の虎をいっそう書き込むだけでなく背景にも工夫を凝らした須磨様式という画風を生み出した。背景に力を入れるのは、洋画への対抗心と思う。



<菅原車山見送り 岩上猛虎之図>
(大垣市新町の祭りの車山の飾りに描かれたもの。翠石は故郷の学校や地域の人にも絵を描いて寄贈している。背景がきちんと書き込まれている。)

豪華な家に住み、財界人が我先に虎の絵を購入する状況となり、いわゆる画壇に出るようなことはなくなった。
 

第4章:小仙洞での日々と画風円熟~神戸時代後期
 1928年から戦争でまた岐阜に疎開し、終戦直後にお亡くなりになるときまで。1928年には娘の結婚があり、娘夫婦のために非常に立派な屏風を贈っている。
 この頃は確かに円熟というか、写実として完成度の高い虎を描いている。



<大虎図>
(これは大垣の小学校所有。虎のリアルさに加えて背景もちゃんと書かれており、絵全体で写実的)

 
 しかしこれらの虎の絵画よりも、家族の幸福を願った絵にとても興味を持った。



<表猛虎・裏白鶴之図屏風>
(嫁ぐ娘に持たせたもの。表に虎、後ろに白鶴が描かれており、ともにつがいの愛の図と子供ができた時の家族愛が描かれている。)






終わりに
 今回始めて大橋翠石を鑑賞した。確かに明治よりも前の虎に比べると飛躍的にリアルで迫力がある。この絵がパリの万博等で国際的に評価されたのは、世界にも類例がないだけに理解できるし、この美術展でも前半の大垣時代までの作品は生き生きしていて、作者が計算はしているが何が生まれるかわからないものを、わくわくして描いているのだろうなという気持ちが伝わってくる。
 しかし後半の神戸時代のものは、背景などまで工夫して工芸的完成度を高めている。確かに日本で最もうまく虎を描く人といわれるだけのことはある。しかし、「うまい絵がいいのか」ということを考えながら、神戸時代の絵を観た。
 私の感覚からは、神戸時代の虎の絵はなんかゴテゴテしているが、虎の絵ではないものはすっきりして勢いがある。そして家族向けに描かれているものは愛情あふれている。
 神戸へ来たとき、翠石は世界で最も評価される日本画家という名声を持っていた。そして、関西財界を中心に引きも切らずに虎の絵の注文が来る状況だったということで、展覧会に出して競争したり知名度をあげたりする必然性はなかった。
 以前伊東深水が美人画以外を描きたいといっても、周りがそれをさせてくれず困惑したという話を聞いたが、翠石の場合にはもっと極端に「虎」を描かせるという周辺の雰囲気があったのだろう。
 外部へ出ないとステージが変わるような変化は出来ない。彼はそれでも虎の絵の完全体を作るべく頑張ったのだろう。
 
 彼はずっと虎を描きたかったのかどうかはわからないが、寧ろ虎以外を対象に描くときに魅力を感じた。もしかすると虎を捨てることで、とてもしんどいかもしれないが、素晴らしい美術の別のステージに上がる可能性もあったのではないかとも思う。
コメント (2)
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