あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展」が再開された。
前回書いたように、このトリエンナーレ内に「表現の自由展」があるのはアートではなく、ジャーナリスティックなもので異物であり、ちゃんとアートとしてせめてトリエンナーレのキュレーター全体での位置づけを出してもらわなければ、本当は反対です。
すなわち下記のURLに、愛知県美術館ギャラリーの作品説明がある。(作品の写真を押せば出てきます。) 「不自由展」以外の展示は、作品の見どころと作者の作品へのかかわりが書かれていて、キュレーターの仕事がなされています。それに対して「不自由展」は経緯説明しか書かれていません。内容もジャーナリストのものです。
これを美術の観点から、書く必要があります。
https://aichitriennale.jp/venues/Venue_A02.html
でも、再開は次善の策としては賛成です。現代美術的運動としては、面白いからです。(ドキッとする、パンチある、面白い、爆発だぁーというのが芸術だと思っていますから・・)
そして私も再度芸術文化センターに行ってきましたが、10時に行くと大勢の人が並んでいて、活気があってとてもよかった。
<わあ凄い>
凄いこと
起きているのかも
並ぶ人
その入り口は
迷宮へ通ず
凄いこと
起きているのかも
並ぶ人
その入り口は
迷宮へ通ず
少し、現代美術と今回のことについてメモ書きしておきます。(なお文章のリズムで、美術を使ったり、アートを使ったりします。)
1.現代美術とは
Wikiでは、下記のように書かれている。
「現代美術またはコンテンポラリーアートとは、歴史の現代を借りた用語で、美術史における今日、すなわち20世紀後半から21世紀まで美術を指している。
現代美術家たちは、世界的にお互いに関連した状況で、文化的には異なった環境で、しかも技術的には先進的な世界で作品を作っている。画題の本質を新鮮な目で見て、新しい方法で実験を行った時代である。彼らの芸術は画材、方法、コンセプト、主題の常に変化する動的な組み合わせであり、それは20世紀には既に始まっていたものである。」
ここで私が重要と思っているのは、下記である。
・現代美術家たちは、世界的にお互いに関連している。
・技術的には先進的な世界で作品を作っている。
すなわち、現代美術家はある意味コスモポリタンで、国境にとらわれない活動をしている。日本では無名であっても、世界ではとんでもない存在、もしくはこれからそうなる可能性を持っている人たち、そうならなくてもとんでもない人とつながりを持っているかもしれない人たちである。日本国内だけを見ている人には、その存在が理解できない。
後者は、今までの美術活動にとらわれないコンセプト提示とか、音楽や映像を複合化させた技術手法を適用するとかである。技術手法やそれを感じる方法が不安定なため、時代の試練を乗り越えられるかわからない。(今回も、このレベルの映像表現?というのがあった。)
<見つめるものは>
貴方が
見つめるものは
壁の絵画?
浮遊するデッサン?
貴方御自身?
貴方が
見つめるものは
壁の絵画?
浮遊するデッサン?
貴方御自身?
愛知芸術文化センター内展示 文谷有佳里作 「なにもない風景を眺める」 ほか
(この作品は、ウィンドウ内に飾られた展示だけでなく、そのウィンドウに描かれたデッサンも作品の一部になっています。そしてきっとそれを見る人も作品の一部)
2.現代美術家の評価
大戦後急激に伸長したアメリカ経済界が、美術においてもこれまでにない新しい価値を要求し、新しい基準を作ろうとした。その中でアメリカを中心に勃興した現代美術に目をつけ、その価値を高く意義付けすることで、ヨーロッパの美術界を抑え込んだ。
新興の起業家等の金持ちたちは従来の教養としての美学ではなく、新時代を拓くための新しい刺激や新しい発想および視点を評価し、現代美術のスポンサーとなった。現代美術家たちは、そういった新しい時代に向かうお金持ちたち、またそれを代行するキュレーターたちに向かって仕事をする。従来の教養美術から抜けだせない世間の人は見る目があるはずはないから、自負心を持った美術家たちは期待をしていない。
これまでの美術というものも、その時代に見ている人はほとんどないのが普通で(例外は浮世絵)、後世見る目が安定したところで世の中に評価される。だから現代のほとんどの人が現代美術をわからないのは当たり前である。
現代美術の展示会というのは、美術家ではなくキュレーターの能力の展示会で、キュレーターの新しいスポンサー探し、新美術への世間の許容度を図り市場の拡大できる時期を図る場所である。
3.現代美術の「はしり」 (知らない人への解説)
既に著名な作家であったマルセル・デュシャンが、1917年のアンデパンダン展という無審査の美術展に、下記のような男性用便器に架空名のサインをして、「泉」」という作品名で応募した。しかしこれはアートではないと審査員から拒否され、無審査であるにも関わらず展示がなされなかった。
彼はアートとは何かを純粋に考えて実験的にこの行為を行ったもので、「アート作品は目前にある美しい絵画」という概念から、その作品を起点にして、鑑賞者の頭の中で完成するのがアート作品だ」という、コペルニクス的な美の概念の転換が提示された。
(マルセル・デュシャンの「泉」のレプリカ:本物はなくなったが、大勢の人がデュシャン認定のレプリカを作っている。)
今回のトリエンナーレ作品も、この概念にほぼ沿っていていろんな情報をいろんな手段で提示し、観る人の感情を動かすというスタイルをとっている。極端なものはメンソールを蒸発したもので部屋を満たし、感情由来の涙を強制的に流させるという作品もある。
伝統的な「美」を見て気分がよくなるということを目標としていないから、そういった批判はピント外れである。でもそういった過剰反応に対しては、そういった頑固な日本人が存在するということを世界に知らしめたということで、意味がある。
4.今回のあいちトリエンナーレの感想全般
「表現の不自由展」再開後に芸術文化センターを再訪した。もともと「表現の不自由展」はジャーナリストがジャーナリスティックに集めただけのもので、別にくじ引きしてみることもないとおもったからトライもしていない。
しかし、それに連帯?していた数件の作品が再開したので、それを見に行った。そして非常に満足し、これらがあって初めてトリエンナーレ全体の展示が引き立てあっているとおもった。
これら再開展示品を見ることができなかったトリエンナーレ展来訪者は、公開された展示予定品と実展示品が違うとして、裁判を起こしてもいいくらい。
全般的な感想を以下に書きます。
(1)女性作家を強制的に半分にしたのは成功
現代美術は、表現したい現代の課題を掘り下げ未来を考えるきっかけを見せることが重要だが、家族や女性そして平和や難民の問題等で、従来の展示会で多数過ぎた女性のこまやかな視点が発揮されていて、非常に視野が広がった。津田さんの成果である。
(2)戦後処理を含むアジアの問題
「表現の不自由展」もたぶんそうだが(見ていないが)、日本人とアジアの人で太平洋戦争の認識に差があり、そのもやもやが解消していない。私はアジア各国およびアメリカへ行くたびに向こうの博物館に行って戦争展示を見るが、そこの国の人たちはそれで教育を受けている。お互いの常識を知り合うという意味で、「世界各国における太平洋戦争展」といったものをやればいいと思う。
(3)難民にかかわる問題/日本国内の外国人の問題
ヨーロッパを中心に多くの展示があり、日本で取り上げる以上に世界にとって重要な問題と認識されていると思った。
また日本国内の外国人の存在は、日本またアジア等の送りこんだ国の作家によってとり上げられ、国籍、民族の違いによる異文化の葛藤が取り上げられた。
(4)表現の不自由展について
最初に書いたように、「表現の不自由展」がここに存在するのは反対で、津田芸術監督としては大失敗だったが、ジャーナリストとしては国のエキセントリックな反応を引き出し大成功だったと思う。そして私たちみたいな現代美術に興味を持っている人や実際に関わっている人にも大成功、これだけ現代美術に興味を持つきっかけを社会に広めてくれてうれしい。
愛知県は失敗。開催前の津田監督の独走を止めることができなかった。後の対応も県知事という政治家が前面に出すぎて市長と意地を張りあったことで、問題を複雑化した。
大失敗は日本政府。確かに日本の各自治体には影響力があるだろうが、最初に述べたように現代美術の世界は国際的であり、そのネットワークの中をコントロールすることは出来ない。
「表現の不自由展」は国内限定に騒ぎを抑えておくようにすればいいもの(たぶん作品レベルもそんなもの)を、大仰に目立った対応をしたことで、世界に問題の存在と日本が敏感に反応することを知らしめた。そし現代美術への無理解による干渉によって、世界に連なる現代美術全体を敵にした。特に「表現の不自由展」」に知名度を与えてしまった。あの展示が「日本における表現の不自由展」として、世界を回ることになったらどうするつもりだろう。
美術に対する最大の攻撃は、反応することではなく無視することである。
(5)子供への対応
今回のトリエンナーレでは、子供が参加するいろいろな取り組みを行っている。その一つが芸文センターにおけるプレイグラウンド。段ボール王国。
今回行ったら、前回に比べて作品がぎっしりと詰まってきて来た。やや大人が干渉しすぎではとも思うが、それでも子供たちの勢いはすごく、作品の完成度やバラエティが上がってきている。最後の日までどのように発展するか楽しみである。
(6)美術の未来
今回、メンソール部屋で強制的に涙を出させるという展示があった。これはまだ共通体験である。もし感情を動かすということが美術ならば、将来3Dのゴーグル、イヤホンでその人ごとにアレンジされた情報を伝える機器とソフトが美術になるかもしれない。もっと極端なものとして、飲んだらいろんな感情が生まれる薬が、美術になるかもしれない・・・ などとイメージをいろいろ飛ばしました。