東京国立近代美術館(MOMAT)の所蔵作品展 「何かが起こっている:1907-1945の軌跡」
が良かったので紹介します。 以下、MOMATの公式サイトから、かなり説明を引用させていただきました。
1ハイライトコーナ・・・・前回、ハイライトの一部、平福百穂を紹介
日清戦争(1894–95年)、日露戦争(1904–05年)の勝利によって、日本は列国との不平等条約を改正し、真の独立国としての地位を獲得します。東アジアの新秩序の担い手を自任し、「世界の中の日本」という意識が芽生え始めるのもこの頃のことです。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描きだしたように、明治維新以来追い求めてきた近代日本の国家像がひとつの完成を見たのです。それはまた、当時の国際関係の中で日本が「帝国」としての一歩を踏み出したことを意味します。日露戦争の結果、日本は1910(明治43)年に韓国を併合し、大陸進出への足がかりを得たのです。
文部省主催の美術展覧会(文展)が始まったのは、日露戦争直後の1907(明治40)年のこと。第1回文展出品作の中には和田三造の《南風》のように、英雄的な男性像によって時代の気運を捉えたものも含まれていました。しかし、その一方で戦争遂行の負担を強いられてきた民衆の政府に対する不満が爆発。世間の関心の比重は次第に「国家」から「個人」に移りつつありました。
3. わたしと太陽
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「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。[…]人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである」。1910(明治43)年に高村光太郎が発表したエッセイ、「緑色の太陽」の中の一文です。外界の自然の姿すら変えることが可能な、芸術家のものの見方、感じ方の絶対の自由をうたう、大正デモクラシーの幕開けを告げる文章です。さて、赤いはずの太陽が補色の緑で描かれる―このたとえの背後には、オレンジと青の二つの補色で太陽を描くヴァン・ゴッホの作品のイメージがあったはずです。同じ1910年に発刊された雑誌『白樺』には、ゴッホの複製図版が多数紹介されました。輝くような色彩(図版の多くはモノクロでしたが)、息せき切った作画のスピード感を示す絵具の厚塗り、そして周囲に理解されない悲劇の生涯―ゴッホはたちまちのうちに、若い芸術家たちの拡張を求めて止まない「わたし=自我」を照らし出す、心の「太陽」となったのです。
右下の写真の別府温泉、明治前半に大阪との航路ができ、明治後半には温泉宿が急激に増え、財界の大物の別荘なども建ったとか。 鶴見岳などをバックにした
光景は、確かに日本新八景の審査基準に当てはまる。
こうしたディスカバージャパンの潮流は、版画の世界にも広がっていく。
瀞峡も、当然ですが、ジェット船ではなく、帆船で遡っていた。
花巻温泉が出てきたのも驚き。 別府温泉と同じ脈絡でしょうが、八景には選ばれていないのに、最高点とは。 地元の強力な運動があったのでしょう。
その流れは、中国大陸の満州にもおよび、満州各都市観察コースなどが紹介されている。 左下の写真は撫順炭鉱のオイルシェール工場。 今、シェールガスなどが話題ですが
当時から、頁岩から石油を精製することが行われていたんだ。 右上の写真は五龍背温泉、右下は安東市街、鴨緑江を渡った大陸側の街だとか。 左上は忠霊塔(奉天)、日露
戦役とか満州事変で亡くなった戦士の慰霊塔ですが、中国の現地の方はどんな思いだったことか。
日本名山シリーズの絵、伯耆大山。 今も変わらぬ荘厳さがあります。 下の絵は、奈良三笠山。 名山のイメージは持っていませんでしたので、驚きです。
朝鮮を当時占領していたので、当たり前のように朝鮮の風景も出てきます。
一方、日本のなかでも風景が変わっていった。
渋谷の百貨店だって。
工場地帯も
この長谷川利行の絵は、ふるさと創生のコーナとは違う場所の展示だったかもしれませんが、ここで紹介してもおかしくないので
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