田川市石炭・歴史博物館のブログ

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田川のコト 第一回:江戸・明治・大正時代

2016年07月04日 | 日記

みなさん、こんにちは!

さてさて。

毎回ブログにて「田川に遊びに来てくださいネ!」とお願いしておりますが、地元の方はともかく、県外の方、なかには福岡県内の方でも、田川がどんなトコロなのかイマイチピンと来ていない方々も多いと思われますので、数回に分けて、田川のコトにつきましてご紹介をさせていただこうというこのシリーズ。

第一回目は、江戸時代末期から明治・大正時代の田川についてデス!

さて、当博物館が所在しますのは、現在「福岡県-田川市-伊田(いた)」という地名です。
江戸時代ならば「豊前国(小倉藩)-田川郡-下伊田村(しもいたむら)」ってな感じです。


(石炭記念公園から見た下伊田地区)

その頃の下伊田村はどんな感じか想像してみましょう♪

★彦山川の沿岸に耕作地が広がっており、農村としてお米などを作っていたでしょう。
★地域の氏神である風治八幡宮の神幸祭は、村人で大賑わいだったでしょう。
★豊前国(小倉)と筑前国(秋月)をつなぐ街道の沿線であり、参勤交代が通ったり、飛脚や旅人なども頻繁に見かけたかもしれません。
★街道は英彦山神社(現英彦山神宮)の参拝路にもつながり、参拝者や商人なども多く通行していたでしょう。

ちなみに「田川市史」によりますと、嘉永五年(1852年)の下伊田村の人口は、ヒト325人、ウマ4頭、ウシ29頭とのことデス。

と、こんな感じで、下伊田村は基本的にはごく一般的な「ザ・農村」でした。

明治維新後、下伊田村は彦山川の川上にあたる上伊田村と合併し明治20年に伊田村へ、同22年、さらに川上の伊加利(いかり)村と合併して、大正3年に町制移行で伊田町が誕生しました。

明治維新まで、主に瀬戸内海の製塩などのために藩による採掘が行なわれていた石炭が、明治6年に施行された「日本坑法」により民間の参入が相次ぎ、中小の炭坑が乱立します。

その後明治15年、乱立する炭坑とそれに伴う乱掘を防止するため、明治政府は「選定鉱区制度」を導入します。
選定鉱区によってひとつの鉱区の開発規模が一万坪以上となったことで、財閥系資本の炭坑経営をうながします。
田川では三井財閥が明治33年、「後藤寺坑」・「大藪坑」・「伊田坑(斜坑)」を買収し、経営に乗り出します。

当初は現田川市西部の弓削田(ゆげた)・後藤寺で炭坑開発が進みましたが、選定鉱区が解除され、豊州鉄道の田川線(行橋-伊田間)の開通で伊田駅が設置されると、「農村」であった伊田の開発も大きく発展していきます。

当時の財閥による炭坑開発にともなって、各種インフラが整備され、人口が集中的に増加したため、炭坑によって都市が形成されていきました。

従業員が住む炭坑住宅、保健衛生のための病院、冠婚葬祭のための寺社仏閣や、保育所や教育のための学校などが炭鉱会社によって作られ、その周りには沢山の商店や飲食店などが集まってきました。

そして大正8年には、三井田川鉱業所の人員は、鉱員数16,438人、職員数571人となっておりました。

このように、炭坑とともに姿が変わっていった田川の町。

次回は、炭坑が最盛期を迎えた昭和時代についてご紹介いたしますネ!

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