
数学とは何か?集合とは何か?証明とは?数学的厳密性or直観とは何か?その質問に対する答えを明確にするために本書は書かれたという。数学の起源にはじまり、物理的に役に立つ道具として発展した数学は、やがて数学のための数学=純粋数学を内部に生み出し抽象化概念を扱う上でとても適した道具へと進化していく。論理学者によれば宗教化ともいえるその現象までをつづった1~3章の中には、数学ヲタにしかわからないような難解な数式も(この段階では)ほとんど登場してこない。(第5章を除けば)これから数学を学ぼうとする素人にも十分理解できる優しい内容となっている。
(数式はチンプンかんぷんでもなぜかそのニュアンス?は伝わってくる)オイラーの複素解析→フーリエ解析にいたる美の廻廊そして神の悪戯としか思えないゴールドバッハ&リーマンの素数予想等々、天才たちの数学的直観に基づく美しい偉業には手放しで無条件の賛辞を送りながら、読めない名著として名高い?ラッセルとホワイトヘッドによる“プリンキア・マテマティカ”並びにツェメロ=フレンケルのZFC公理など論理学的集合論についてはどこか冷ややかな目線を送っている。有名な四色問題の証明にコンピューター計算(弁証法的ではない総当たり方式のアルゴリズム)が使われた事実に対しては明らかに嫌悪感さえ示しているのである。
ラッセルのパラドックスを皮切りに哲学者たちから受けた数学界への攻撃を回避するために、数学を一種のゲームとしてとらえるヒルベルトらが構築しようとした形式主義。それが現代数学においても幅を効かせている事実にはむしろ批判的。たかだか“1+1=2”を記述するために1ページもの分量をわざわざ割いて無矛盾性を厳格に追及したプリンキア・マテマティカ。ゲーデルの不確定性定理によってまさにその矛盾性をつかれ灰塵と化したドラマティックなトリビアに対しても(「ざまあみさらせ」と大喜びするのかと思いきや)数学者らしい淡々とした記述に止っている。
プラトン主義でも論理主義でも形式主義でもない数学者がたどりついた結論とはいったいなんだったのだろうか。各派に関する批評は数学者らしくとっても控えめなため、本書を最終章まで読み進めないと結論がよくわからない構造になっているのだ。謎が最後に明かされる推理小説というか、数学者にしかわからない美しい証明というアナロジーが一番当てはまるのかもしれない。要するに筆者は、数学的実在論を盾に数学を神話扱いし、その“美”への理解のないまま重箱の隅をつついてくる哲学者たちに苦言を呈したかったのではないだろうか。長々とした“証明”の最後はこう締め括られている。
「数学は主観的でも物理的でもないある客観的実在である。・・・数学を受容するには小さすぎる哲学の中に数学を無理に押し込めるのでなくて、むしろ哲学のカテゴリーの方を拡大してわれわれの数学的経験の現実を受け入れるようにすること。これがわれわれの結論である」
数学的経験(森北出版株式会社)
著者 P.J.デービス、R.ヘルシュ
[オススメ度



