
その昔登山中の滑落事故で全治6ヶ月の大怪我をおって、このノンフィクションに書かれている筋ジストロフィー患者鹿野のような寝たきり生活を送ったことがある。現地の病院に入院して3ヶ月間は、歩くことはもちろん起き上がることも出来ない状態で、ひたすらベッドの上で横になったまま、まずい病院食を食べ、糞して寝ること以外にまったくできることがなかったのである。入院中、何が一番つらいかというと、小便はともかく、ベッドの上で寝たまま排便、終了後看護婦の方に肛門をさらしてエチケットティッシュで拭き取って貰うことが何よりも恥ずかしく、人としての羞恥心を捨てざるを得なかったことを今でも覚えている。
このノンフィクションを読んで不思議に思ったことがある。果たして、患者とボランティアの皆さんの関係が、本当に映画化できるようなほのぼのムードの健全なものだったのか、きわめて疑わしいことである。「真夜中にバナナ食いたくなったから買ってこい」なんてワガママをいおうものなら、私の場合、ベッドの上のウンコはそのまましばらくおきっぱなしで、食事のたんびにベッド上下を手伝っでもらった隣の患者さんも知らんぷり、しまいには自殺未遂だなんてよからぬ噂をたてられること必至だったからである。ゴマすりではないけれど、それなりいやそれ以上に気を使わなければならない入院生活だったのである。
そんな悠長なこと言ってたらこちとらあの世行きなんだよ。使えるもんはなんでも使う、その何が悪い?草葉の鹿野某からそうお叱りをたまわりそうな気がするのだが、障がい者と言えども一人間であり、けっして特別な存在ではないこと。それがノーマライゼーションの基本的考え方なのではないのか。もし可能であるならば、健常者と同じ生きるチャンスを与えることになんらやぶさかではない私だが、それに伴って健常者とおなじ社会的責任が生じることを、鹿野さんあなたはお忘れではなかったのか、とここで言いたいのである。
鹿ボラをすればなんの張り合いも感じられない今の人生に“生きる意味”を見いださせるのではないか、と思ってなかばプチ修行気分でボランティアに参加された皆さんにも大いに問題があるだろう。生かす―生かされる、助ける―助けられる、与える―与えられる関係によって生じる多幸感に酔いしれた“ホワイトナイト症候群”にある意味集団感染していたのではないだろうか。作中で誰かが鹿野のことを“尊師”に例えていたが、彼ら彼女らの関係にあのテロリスト集団と化したカルト教団と同じ匂いを感じたのである。鹿野の病状が悪化していく後半にかけて、筆致がダークになり内容か堂々巡りを始めたのも、筆者自身その辺りの疑義が最後まで拭えなかったからではないだろうか。
オウムサリン事件が起きた最大の原因は、教団を統率するための“律”がなかったからだ、と分析した仏教学者がおったが、まさに鹿野のワガママや恫喝をその律と勘違いした鹿ボラの皆さんが、心の葛藤に悩みやがてハウスを離脱していったのは、当然の成り行きだったのかもしれない。占い師に洗脳され金を貢いでしまう政治家や芸能人ではないけれど、普段多くの人と接していれば必然的に生じるであろう違和感に対する感受性が少々鈍ってはいませんでしたか?他力本願とは言うけれど、自由とはあくまでも自分に由ることであり、生きることの執着を捨てない限り、悟りへの到達などまずは不可能なのだから。
こんな夜更けにバナナかよ
筆者 渡辺一史(文春文庫)
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