
ドミニコ修道院の修道女たちを描いたロベール・ブレッソンの長編デビュー作。断続的なモンタージュと俳優たちに演技をさせない演出で有名なブレッソンだが、本作においては職業俳優を起用し、プロットの流れ自体も実になめらか。抽象画家と言われる人に普通の絵を描かせても旨いというが、ある神父が書いた“脱獄のドミニコ修道女”という本に着想を得て、劇作家ジャン・ジロドゥがその台詞を担当したシナリオを無難に映像化している。
女ばかりの修道院にやってきたアンヌ=マリー(ルネ・フォール)はブルジョア階級出身のお嬢様。元受刑囚の修道女から刑務所に服役中のテレーズという不幸な女の話を聞き興味を引かれる。私が救うべきはこの罪深き女テレーズなのだわ。元来思い込みの激しいアンヌ=マリーはそれを神の思し召しと受けとるのである。刑務所から出所したその日に自分を嵌めた男を殺害、罪を逃れるためドミニコ修道院に逃げ込んできたテレーズだったが…
根が真面目なのかそれとも天然なのか、世間知らずのお譲さまアンヌ=マリーは、修道院という女社会のルールと神の教えが食い違うたびにひと悶着を起こし、しまいには修道院を追い出されてしまうのだ。そんな純粋な信仰心の持ち主アンヌ=マリーを院長は気に入っていたが、副院長以下の修道女たちからは当然総スカン。最も目をかけていたテレーズからも、「(救いの)陳列ケースに並べられているような気分だわ」と逆に毛嫌いされてしまう。
聖=アンヌ=マリー:俗=テレーズという対比は、本作に限らず信仰をテーマにした映画の場合、お決まりといってもいい演出。その聖なるアンヌ=マリーの信仰心が強すぎるあまり、俗なるテレーズに煙たがられるというシナリオも、ベルイマン脚本『愛の風景』等でもお馴染みだ。この映画の白眉は、俗なる人間の傷ついた心を癒すために、聖なる人間が上から目線のポジションを捨て俗なる人間と対等になるという点にある。
刑務所を出所したテレーズと修道院を追い出されたアンヌ=マリーは、シャバという地獄に放逐されたという意味では同じ立場。死の床についたアンヌになり代わって修道誓願を読み上げたテレーズは、この時点で天に召されつつあるアンヌ=マリーと一体化したのではないか。階下で待っていた警察のお縄に(死刑を覚悟の上で)自ら手を差し出すのである。「アビアント(また会いましょう)」ここドミニコ修道院でという意味なのか、それとも地獄で会いましょうということなのか。“偽善”という自らの罪に気づかない修道女たちの歌声が、いつまでもホールに響き渡っていた…
罪の天使たち
ロベール・ブレッソン(1943年)
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