夢の向こう側 

一度あきらめた水球への夢を再び追いかけ、母校での全国制覇を達成。
第3の水球人生を経て、新たなステージへ…

新たな決意

2013-09-19 10:03:20 | 思い
2020年、東京オリンピック。
それに向けて、日本の女子水球は変わらないといけない。

今の中学3年生が大学4年生。
したがって、今の中高生は、オリンピックに出場するチャンスが広がる。
もっと言えば、今の大学生も、OGたちも続けていれば出場するチャンスがあるのだ。

だけど、果たして、それでいいのか?
自力では出場できないオリンピックという舞台。
開催国だからと出場して、それで満足か?

オリンピックに出場できるのではなく、出場しなくてはならない。

私はそう思う。

日本の女子水球が変わるために、何かしたい。

まず、今の自分にできること。

多くの現役選手と触れあい続ける。
そのために、自分も現役選手であり続ける。

あと、7年。
どこまで、この体力が維持できるかわからないけど、試合には出続けたいと思う。
入れてくれるチームあるかな(笑)

まずは、10月の日本選手権。
相手はどこかまだわからないけど、全力を出し切るのみ。

毎日、少しずつ、やれることをやろう。

2020 東京

2013-09-09 16:31:56 | 思い
2020年の東京オリンピック招致が決まった。
現在の所、自力でオリンピックに出場できない、女子水球界は少し盛り上がっている。
なんせ、予選なしでオリンピックに出場出来るのだから。
全日本にさえ入れば、それでオリンピックに出場できるのだ。

でも、はたして、それでうかれていていいのだろうか?
オリンピックに出場する、逆に言えば、出場しなければいけないと言うことは、
それなりに、チームの仕上がりが必然とされてくる。

今のままの全日本では、到底、戦うことなど出来ず、恥をかきにいくようなものだと私は思う。
オリンピックが決定して、今の現役選手の中には、あと7年間続けようと思った選手も多いと思うが、
それなりの覚悟をして、続けてもらいたいと思う。

長年、藤村をそして日本の女子水球界を引っ張ってこられた永田先生が59才という若さで亡くなられた。
この東京オリンピックの決定を待たずして。。。

永田先生が全日本を率いておられた時代、つまり、私が現役だったときは、
オリンピックに女子の水球はなかった。
それでも、FINAカップで6位には入賞していた。

だから、オリンピックのある現在がうらやましい。
そう思っているのは、私だけではないだろう。
おそらく、あの時代にオリンピックがあれば、、、
だけど、無かったんだから仕方がない。

オリンピック種目になったのは、2000年シドニー。
それ以来、もちろんオリンピックには出場したことがない。
2001年、福岡での世水。
開催国なので、出場は出来たが11位。
その2年後の2003年の世水。
これも11位。
2002年に始まったワールドリーグ。
これには、2007年以降、毎年参加させてもらっているが、いずれも予選ラウンド敗退。

このチームが、あと7年でどれだけ変われるか?
いや、変わってもらわないといけない。

大学出て一度はやめた水球。
だけど、またやり始めた水球。

日本の女子水球が強くなるために、自分もなんかの形で力になりたいと思う。
それが、なんなのか、今は分からないけど・・・

オリンピックが決まって、今最年長26歳の現役日本代表が、全員続けるつもりで頑張ってほしいと思う。
そして、そこに、若い力が食い込んでくる。
上の人たちが引退したから、繰り上がりで全日本に入るんじゃなく、自分たちの実力で勝ち取る全日本。
ベテラン選手は、自分たちの体力・技術を維持しながら、ベテランらしくさらに磨きがかかる。
そうやって、下剋上の世界を作っていく。

そうなれば、今よりもっといいチームになっていることだろう。

その時、私は何をしてるんだろうなぁ。

とりあえず、今は、目の前の日本選手権に向けて頑張るか!!



ある人の死

2013-09-03 17:13:19 | 思い
9月1日、女子水球会を引っ張ってきた人が亡くなられました。
昨年、余命が短いことが分かり、それでも最後の最後まで水球と共に生きて逝かれました。

初めてお話したのは、中学1年生の時。
鳥羽高校での第2回全国女子水球大会。
Jr.の部で出場した私。
試合の後、「いくつだ?」と言われました。
「中1です。」と答えると、
「ちゅういち~~??」と甲高い声で答えられました。

その後は、試合会場で会っても話をすることなく、
ライバルチームの監督。

高2のとき、全日本チームが発足しました。
初代の監督。
それから大学3年生までの5年間、全日本ではその人のもとでプレーしました。

高2の時は、アメリカのクリスマストーナメントに参加。
アメリカのナショナルA、ナショナルB、シニア、日本でのリーグ戦だったかな?
あんまり覚えてない。
そこで、ナショナルBには勝てたと思う。
だけど、初めはほとんど使ってもらえなかったなぁ~。
なんか、悔しくて、悔しくて・・・
最後の試合でやっとそれなりに使ってもらえて、必死にプレーしたことは覚えてます。

高3の時は、ヨーロッパ遠征に行った。
ハンガリーとドイツでの試合。
ハンガリーのラフプレーに、早くそして速く動くことを学んだなぁ。
ただの練習試合なのに、観客が入り、すごい歓声があったことにビックリしました。
この時から、スタメンで使ってもらえるようになりました。
自分のプレーを認めてもらえたんだと、嬉しかったのを覚えてます。

大学生になる時、ライバルチームを選びました。
もし、違うチームを選んでいたら、私の人生も違ったのかなぁ~なんて思います。
大学では、リーグ戦・全国女子・インカレと常にいつも競った試合をしてました。
戦術重視で来るライバルチームに対し、体力重視の我がチーム(笑)
監督がミーティングなんてしない我がチームは、どうやったら勝てるか、、、
良くみんなで話し合ったなぁ。。。

全日本では、大1の時に、初めての公式試合、FINAカップ・アメリカ大会に参加。
本来は、いきなり出場なんてできないはずだけど、参加予定チームに棄権があり、
2年前の遠征で高評価をしてくれたアメリカの推薦だったとか…

結果は6位。
強豪国には、全く歯が立たなかったけど、
それでも、2年後のFINAカップの出場権を獲得した。

この大会の前の合宿で、肘を痛めた私。
ここで、怪我しなかったら、私の人生は変わっていたかなぁ。

大2の時は、カナダ遠征。
全日本のメンバーに選んでもらっていたんだけど、体調を崩したこの年。
直前で、全日本を棄権。
迷惑をかけました。
その後のリーグ戦では、体力が無く、果敢に攻めにいっても、
「大丈夫、体力無い」というベンチの声が悔しくてたまりませんでした。

その年の全国女子。
同点、延長、また同点、再延長、また同点、P合戦…
という試合。
延長・再延長で自分がゴールを決めたんだけど、P合戦の2番手で外し、負けた。

でも、私はそこから強くなった。

負けない。

人一倍、冬の基礎練も頑張った。

大3の時、2度目のFINAカップ。
イタリア大会。

すっかり、チームの柱として使ってもらえるようになった。
このときのチームDF。
命名「忍者」

本戦でも、何度か、ここからのカウンターが決まり、楽しかった。

結果は、7位。
翌年の世界選手権の出場権が取れず、全日本はいったんここで中断。

勝てるチャンスはたくさんあった。
アメリカにもリードしていた。
だけど、勝てなかった。
何かが足りなかった。

やぱり、私たちは甘いんだ。。
そう、思わされた大会だった。

それでも、監督は、「よくやった」と言ってくれた。
その夜、初めて、監督にワインを注いだ。
意外と嬉しそうにしてくれたのを覚えています。

大4の時、全日本の活動はありませんでした。
もし、この時も活動があれば、私の人生も、女子水球の未来も変わっていたのかなぁって思います。

この年は、ぶっちぎり。
リーグ戦も全国女子もインカレも、全く寄せ付けることのなく勝ち切りました。
全国女子後のスイマガにコメント。
「OFもすごいけど、DFがすごい」
って、言ってもらえました。

ここで、私の水球人生はいったん終わり。
肩が痛かったっていうのもあるけど、あまりにも大学水球が濃すぎて、休みたかったのかも。。

でも、心残りがチラホラ。
体調を崩したりもしました。

そして、鍼灸資格をとり、
高知県に勉強をし、
結婚して、
子どもを産んで、
開業して、、、

水球界からは、全く無縁の生活。

あるとき、見に行った水球の試合。

そこで、偶然にも電車でその人に会う。
都会の本数も車両も多い電車で、同じ電車・同じ車両に乗り合わせるとは。。。
なにか、引かれる縁みたいなものがあるのか?

私の心の中の水球に火がついたその試合。

それから、泳ぎ始め、マスターズに誘われ出場するようになり、
水球の試合にも出るようになった。

始めは、母校の立て直し。。

それからは、自分のために水球。
昨年も今年も、自力で全国女子に出場。
今年は、日本選手権になるんだっけな。。

昨年の全国女子。
私の試合を見てくれていた。

試合後、握手。
何も言わずに握手を求めてくれた。

その痩せ干せた冷たい手。

病におかされている手だった。

「練習したね。。一番良かったよ。。。」

その年、その人ひきいるチームは全国優勝をした。

ここで、会うのは最後??と思っていたけど、
すごく、頑張られた。

8月10日、11日に川口で開催された二次予選。

車いすだが、全試合観戦。
2チームのミーティングをこなし、ベンチにも入る。

本当に、水球が好きなんだ。

その時に、かけられた言葉。
「おっ、最年長。。」
それが、最後の言葉になるなんて。。。

だいぶ病におかされた様子の姿だったけど、
この後続くJO、インカレ、日本選手権。
そこまでは、姿を拝見できるだろうと思っていた。

突然の訃報。

いつ何があってもおかしくはないと思っていたけど、
JOにもドクターストップで姿を見せず、、、
そのまま逝かれてしまった。

こんなことなら、二次予選の時にもっと話をしとけばよかったかな。
もっと、いいプレーを見せられたらよかったな。

全国女子30回目にして日本選手権になる大会。
誰よりも心待ちにしてたんじゃないかな。

だけど、最後の最後まで、大好きな水球と関われて、
彼は幸せだったんじゃないかなぁと思います。

そして、そんな彼にとって、私も人生の一駒であれたことに幸せを感じます。

心より、御冥福をお祈り申し上げます。