
今日、沼田まほかるの『猫鳴り』を読み終えた。
猫鳴りというのは、要するに猫のゴロゴロのことである。
ラストは年老いた飼い猫(モン)の死が描かれているので、猫好きなら号泣必至だろうし、
飼い猫の看取りを経験済みの人なら自分の猫のことを思い出しながら読むことになるだろう。
私の場合は、昔実家で飼っていたママの猫の最期を思い出したり、
おそらく近い将来訪れるだろううちの猫ちゃんの死について想像したりしていた。
実家の猫は長生きをして、長生き猫のお決まりコースの慢性腎不全で死んだのだ。
うちの猫ちゃんもおばあちゃん猫だから、たぶん同じコースを歩むことになるだろう。
この本は三つの部に分かれている。
第一部は、モンが夫婦に飼われることになる場面。
妻の信枝は流産したばかりで傷心の日々を送っていた。
(高齢でやっと妊娠したのだが、どうやらそれは夫の子ではないらしかった。)
家の近くで仔猫が鳴いていて、いやだなぁと思っている。
しつこく鳴き続けるのでしかたなく様子を見に行き、
弱っていたので連れ帰って餌をあげたり体を拭いたり世話してやる。
世話してやるのだが、快復したと思ったら捨てに行くのである。
捨てたはずなのだが、翌日何故かまた自宅の前にいる。
また餌をやっては捨てに行くことを繰り返すのだが、結局最後は飼うことになる。
飼ってやったらどうだと夫の藤治に言われ、
生まれてこなかった子供の代わりに育てることにするのだ。
第二部はかなり場面が変わって、不登校の少年が主人公。
母親が家を出ていき父親と二人暮らし。
少年は動物の赤ちゃんとか小さな子供を見るとイライラし殺意を覚える。
いつもナイフを持ち歩き、ギラギラとした狂気を抱えている。
それが突然、父親が仔猫を連れてきたことで少年に変化が起こる。
結果的にこの仔猫は死んでしまい、ハッピーエンドとはならないのだが。
子供の頃に飼っていた動物を死なせてしまった経験がある人は多いと思うのだが、
自分もそれに洩れず、そのときのこと思い出しモヤモヤした気持ちにもなる。
だが、もしかしたらその頃に
死生観の基みたいなちっぽけなものが生まれたのかなぁとも思えてくる。
第三部では、老猫モンと老人藤治の二人暮らしが描かれている。
信枝に先立たれた藤治は、人と会うことも少なくなり静かな生活を送っている。
元気だと思っていたモンも二十歳となり慢性腎不全を患う。
やがて何も食べなくなって、藤治はモンの死を意識せざるをえなくなる。
藤治は、無理やりでも何か食べさせたほうがよかったのではないか、
そうすればもしかしたら快復したかもしれないという思いにも囚われる。
それでもモンはなんと一ヶ月半生きるのだ。
読んでいると息の詰まる一ヶ月半だが、
私も最後はこういうふうに過ごすのだろうなと思わされるラストだった。