ZEN and ZOO  玉野大介

動物園の中に禅の精神、禅の芸術は生き残っているか、そんなわけの分からないテーマを小脇にかかえ、美術を中心につづります。

町の背中

2010-08-04 20:10:02 | 思索
人は正面の顔よりも背中のほうが多くを語ってしまう。これは計画的に作られた町はすべてが化粧をした正面であるため、何かが足りないと感じる理由だと思う。車が通れない狭い路地、複雑になりすぎた電線を担う電柱、違法に道路に出っ張った商品、隣近所を無視した建築、空き地ができたために現れるむき出しのコンクリート、切ると祟る巨木、動かせない地蔵、これらは町の背中である。背中は計画しても作れない何かだ。
芸術作品も最後は背中が勝負かもしれない。

空き地の美しさ

2010-08-03 12:50:34 | 思索
近くの道路が拡張工事のためいくつもの雑草の生えた空き地が出現しています。その空き地の風情がなんとも心そそるものなのです。なにが魅力なのかと考えてみると、空き地そのものよりもその空き地が出現したことによって露になった隣と後ろの建築物の壁とその周辺の物体です。本来は壁と壁に挟まれていて、人目を気にすることがないのでむき出しの機能そのものの状態なわけです。それが、不意に隣がさら地になったため、意表をつかれた素肌をさらしているわけです。これは何かににている。電気製品などを分解したときに中から出てくる光景です。スケルトンのおもしろさです。表面の化粧された美しさももちろん魅力的です。でも、その裏にある仕組みの美しさもそれ以上に美しいのです。19世紀に現れた美術の新しい動向も美しいという表面についてあるネジをはずして、その中の仕組みをみたいという、子供ののような好奇心がそこにあるような気がします。

コンクリート

2010-08-01 12:38:47 | 思索
人間の直感はその中に無意識の複雑な判断が畳み込まれている。なぜ、墓石の代わりにコンクリートを使わないか、はその判断にいくつものコンクリートに対する感覚がこめられている。泥状のものを乾燥させただけのものである。まさしく泥なのだ。陶器は泥状のものをやくことによって清潔感のあるものに変性している。コンクリートの茶碗でめしは食えない。泥は淀みに通じる。水は流れていてはじめて清浄である。コンクリートは淀んでいるのだ。
染み込んでいるという感覚もある。湿気をいつもある程度染み込ませている。木材は湿気を吸うときもあるが、乾燥すれば徹底的に吐き出す。染み込むは霊に通じる。霊がとりつくとは染み込むようなものである。不成仏霊は何かに染み込みたいものである。

人間も人生において泥状にならないように、焼かれるか石のように結晶するように努力したいものだ。

惑星灯籠がコンクリート的なので、もう少しセラミック的にもっていかねばと思う。