ZEN and ZOO  玉野大介

動物園の中に禅の精神、禅の芸術は生き残っているか、そんなわけの分からないテーマを小脇にかかえ、美術を中心につづります。

ニコライ堂

2010-01-28 22:56:21 | 思索
ブラタモリという番組でニコライ堂の鐘を鳴らしていた。
西洋の鐘は内側から叩くようだ。東洋の鐘は外から叩く。
西洋の住所表記は内側から開いていく。日本の住所表記は外から内へ向かう。
西洋でひらいて、東洋で畳む。

静物画 並べられたものが程よくそれらしく見える角度からそれらを描かなくてもいいじゃないか。

2010-01-21 22:29:00 | 芸術
ものを描いたり、写真を撮ったりするとき、だいたい斜めからである。
そのほうが3次元のものを2次元の平面に写すとき立体的に見えるからだ。
鉛筆を真上から見ると、なんだかわからない。あなたを真上からみると、あなたを生んだ母親でさえ、なんだかわからない。しかし、そこにこそ視覚の可能性があるのかもしれない。りんごをりんごだとわからない角度から描こう。茶碗を茶碗だとわからない角度から描こう。静物画を静物画だとわからない角度から描こう。

静物画 何を並べたってええじゃないか。

2010-01-17 12:50:46 | 芸術
並べるものが、果物、器、布、動物の頭蓋骨など だいたい決まっている。それらが正しい姿勢にある。(横になったりひっくり返ったりしていない。)

何を並べてもいいじゃないか。
テレビ 扇風機 洗剤などの容器 電気コード くしゃくしゃにした紙 蓋 タブレット 電池 残飯 テーブルの足 靴下 百円ショップにあるいろいろなもの 自分で作った名づけようのないもの その他なんでも。

それらを 横にしても 逆さにしても 裏返しても つっかえ棒をしてななめにしても 割っても 削っても 好きなようにやろう。

続く

1、机のような狭い範囲のものの上に何かを並べるを何とかする

2010-01-16 10:06:26 | 芸術
1、机のような狭い範囲のものの上に何かを並べる
どこに並べてもいいではないか。
床でも、階段でも、肩の上でも 電線でも、天井に糊でひっつけても、水中でも、考える限りどこでもいいじゃないか。
範囲も自由に部屋全体、体育館、一つの山、近いほうは目の前のテーブルの上で遠いほうは窓から見える山の中、逆に本棚と壁の隙間、口の中、胃の中、本に挟む、サンドイッチに挟む、などなど。

続く

新しき静物画

2010-01-15 10:47:57 | 芸術
絵画の中で静物画というものは地味な存在です。
でも、ここにこそいろいろな可能性があるような気がします。
ある範囲でしか有効でないニュートンの物理学を全ての宇宙で有効にしたアインシュタインの物理学のようなことが静物画でもできるのではないでしょうか。
それでは現在 静物画とはこういうものだと考えられている狭苦しい定義をあげていきましょう。

1、机のような狭い範囲のものの上に何かを並べる。
2、並べるものが、果物、器、布、動物の頭蓋骨など だいたい決まっている。それらが正しい姿勢にある。(横になったりひっくり返ったりしていない。)
3、机と並べるものが重力によってくっついている。
4、並べられたものが程よくそれらしく見える角度からそれらを描く。

では、順番にこれらを考え直し、新しい静物画を考察していきましょう。

(次回に続く)

経済

2010-01-14 22:48:26 | 思索
資本主義も昨今暗雲がたちこめている。ここで誰か天才経済学者あらわれて、資本主義が必然的に矛盾をはらみ滅びなくてはいけないことを誰もがその話を聞くと納得してしまわざるおえないように巧に語ったとしたら世界は新しい方向へすすむのかもしれない。マルクスとはそんな人だったのだろう。
金融工学というものがあるが どんどん複雑になるばかりだ。城下町の城への道をいりくませて敵が侵入してくるのをなんとか遅らせようするのと似ている。
複雑なものと単純なものはどちらが強いのだろうか。

ゆるキャラと茶碗

2010-01-12 23:36:03 | 思索
侘茶でつかわれる茶碗は日本人独特の感性から、ゆがんだものや欠けたものなど不完全なものが愛好される。こういった感性の現在に通じるもの、それは、ゆるキャラといわれる着ぐるみたちである。崩れ方に徹底性がかけるところが現代人の限界だと思う。いまのままでは千利休は彼らを茶室には招かない。

新しいということ

2010-01-11 20:33:21 | 思索
だいたい感動したり共感したりする本は みんなが共通に持っている考え方を美しい言葉で表現したり、
新しい切り口でたくみに表現したりするのです。こいうものは読んでいて本当に楽しいものです。
少々難解な表現を使っていても、例えば、「こんにちは」を「ちわー」「ちわっす」と言っても理解されてしまうように、やすやすと理解できてしまうものです。
そして、それとは対照的に、まったく新しいことを表現しようとする本が稀にあります。
こういった本は作者がなんとか自分の考えを他人に伝えよう、やさしい単純な言葉で、逐語的に一生懸命書かれているため、
読んでるほうはイライラして途中で投げ出してしまうのです。

西洋音楽とヴァーチャル

2010-01-10 09:39:13 | 思索
今、我々が楽しんでいるほとんどの音楽は西洋音階でできている。
それが世界に広まるまではそれぞれの国がそれぞれの民族の音階をもっていた。
西洋音階はそれで作られた音楽を聴くと、それを聴いている場所がどこであろうと、
音楽が作り上げる別の世界に入っていく。ヴァーチャルな世界をつくりあげる。
それにくらべて、民族音階はそれが演奏されるその場所に固執する。
そこに流れる川のせせらぎ、風に揺れる木々の音、そこに集う仲間達の呼吸、そういったものと呼応しながら演奏される。
環境音楽というものがあるが、これも西洋音階で作られている限り、本来そこにある環境ではなく、ヴァーチャルないまひとつの環境をそこにつくりあげてしまう。
自然に関する環境問題も西洋的な感性で考えていると、どうしてもヴァーチャルな擬似環境を作り上げてしまい、本当に我々のすぐそばにある環境にたどり着けないのかもしれない。

ゴシックとアンテナ

2010-01-08 10:32:26 | 芸術
ゴシック建築の垂直に伸びていこうという様式は人間の頭髪や髭そして爪に似ている気がする。
ゴシック建築に先行するロマネスク様式は爪を切り、髪をそり、そのあとに残った柔らかい肉体のやさしさみたいな感じだ。
人間の頭髪はどうしてそんなに伸びるのだろう。そして、どうして、薄くなるのだろう。
髪の毛はアンテナでいうとVHFやUHFの棒状のアンテナににている。
そして、おでこや禿げた部分はパラボラアンテナに似ている。
だんだん髪が薄くなってくると、衛星放送をよく見るようになったり、
宇宙について熱く語りだしたりするのかもしれない。