日本の美術雑誌を見ていると圧倒的に肖像は若い女性像である。たぶん日本において美しいとは女性的なものなのだ。
日本的なるものは女性的なものかもしれない。釈迦はインドではヒゲの生えたまさしく男である。日本ではヒゲは残っているがなんとなく女性的に表現される。これは性を超越してるというより、日本的に美しくしようと思ったら女性的になってしまったのだ。
そんな中で空海の密教の仏像は憤怒の相で女性化に抵抗している。でも、やはりこういったものは続かない。仏像はまたやさしくなる。縄文土器の荒々しさも受け継がれない。それでもときどき爆発する。利休もこの爆発のひとつだと思う。今では茶道は女性のお稽古事になっている。
日本的なるものは女性的なものかもしれない。釈迦はインドではヒゲの生えたまさしく男である。日本ではヒゲは残っているがなんとなく女性的に表現される。これは性を超越してるというより、日本的に美しくしようと思ったら女性的になってしまったのだ。
そんな中で空海の密教の仏像は憤怒の相で女性化に抵抗している。でも、やはりこういったものは続かない。仏像はまたやさしくなる。縄文土器の荒々しさも受け継がれない。それでもときどき爆発する。利休もこの爆発のひとつだと思う。今では茶道は女性のお稽古事になっている。