キリストの磔のイメージは重力の執拗さを感じさせる。てのひらに打たれた釘にかかるキリストの肉体の重み。それに比べて、仏陀の涅槃図は重力に逆らわず寝転んでいる。身体が敷布団の中に気持ちよく沈み込むために重力はあるかのようだ。
まんじゅうを目の前にするとその中身のあんこがどれほどつまっているか気になります。人間と言うかたまりを前にするとその性格や感情が気になります。それは体積をもつかたまりだから中身が気になるのだと、一枚の薄っぺらな紙を目の前にすると今度は裏が気になります。紙に書いた字や絵だとこれには裏がないわけだからどうだというと、意味というやっかいなものがでしゃばってきます。
動物が火なら、酸素を吐き出す植物は水です。川辺を見てください。水が植物に姿を変えて陸に這い登ってくるような草のはえかたです。植物が水を吸収するのではないのです。水が陸に進出するために植物は池や川の役割をなすのです。森はまさしく陸の海です。我々は森で道に迷うのではありません。森で溺れるのです。
どうして食物を摂取し、そのうえ呼吸で酸素を取り入れるような二つのことをしなければ生きられないのだろう。どちらか一つで十分でではないか、めんどうくさい、つねづね思ってます。これは火が燃えるとき燃料と酸素が必要だということと同じようです。生命とは火と同じものなのです。我々は燃えているのです。
宇宙の始まりを考えると時間の性質上どこまでも遡れてきりがない。こういうふうに考えてはどうでしょうか。100年前なら100年前に宇宙は始まった。そのとき作られた人間には過去の記憶も与えられた。そして過去1万年ぐらいの歴史を想定して遺跡や遺物もつくられた。そして、歴史は未来へ向かって進んでいく。それと同時に過去の未規定なこまごまとした部分や1万年以前の歴史も時間とともにつくられていく。いまのところ宇宙の始まりはビックバンということに落ち着いているが、過去の歴史がつくりあげられるにつれ宇宙が微妙に変化し新しい理論が発見される。埋蔵金がなかなか発見されないのもこれにかかわる過去のできごとが微妙に変化しているからだ。石油や石炭がある時代になって突然利用されたのも納得できる。
利休は一時期、抛筌斎(ほうせんさい)と名乗った。もともと家業が魚問屋だったので、魚をとる道具をなげうつという意味である。新約聖書のなかでイエスが弟子を誘うとき、その弟子になる男が漁師だったので、イエスが「網を捨てて魚ではなく人をつかまえる人間にならないか」と誘う。利休が聖書を読んだかどうかなどはよくわからないが、こういった偶然はおこってしまうものなのだ。利休はたくさんの人を茶の道に誘い、最後に殉教する。利休の弟子にも二人茶の道に死んでいくものがいる。