短大時代にディベートでこの議題があがったことがある。
安楽死には積極的安楽死と消極的安楽死のふたつがあり、
この両者の違いをまず説明する。
積極的安楽死
薬物を投与するなどの積極的方法で死期を早めること。いわば医療の名の下に行われる自殺幇助ということになり、社会からの心理的抵抗は大きい。
また、日本を含む多くの国では刑事犯罪として扱われる。
消極的安楽死
無意味な延命治療、努力をしないで死に致しめること。尊厳死を保つ意味からも合理的で社会的に認知されており、実際の医療現場でもひろく行われる。
自然に死を迎えるという意味でナチュラルコースとも。
例として、呼吸の停止した患者に人工呼吸器を取り付け、その後自発呼吸がないのに取り外すのは積極的安楽死となる。
最初から人工呼吸器を取り付けない(心肺蘇生法を施さない)のは消極的安楽死である。ほぼ同等の行為でありながら
片方は認められていない行為となるため、救命・延命をどこまで行うかは事前によく検討して合意を形成しておく必要性が高い。
以上wikipediaより引用。
さて、ここでただ安楽死についてごにょごにょと説明してもつまらないので
興味のある方は別途調べていただきたい。
今回ワタシはこの議題が短大のディベートであがったときに、
実にクラスの7割以上が積極的安楽死に賛成したことを問題にしたい。
正直、これは驚きの現象だった。
ディベート当日、ワタシは積極的安楽死に否定論者の一人として議論に加わった。
ワタシを含む否定的な論者の基本理論は積極的安楽死=殺人、自殺幇助ではないかと。
医療者はどんな場合においても生命を尊ぶべきであり、
たとえ耐えがたい苦痛などの事情があってもそれをどうにか緩和できる手段を用いて
最大限の努力をするべきである。積極的安楽死は最後の一線を越えてしまっている。
というもの。
一方賛成論者は、患者にとってはもう他に苦痛を緩和する手段がない場合に
同意の下に行っているのだからあってもいいではないか。
つまり、否定論者が言う「最大限の努力」をし尽くした結果もう手段がないから
認めてもいいのではないかというものだ。
患者のことを何より思っての優しい意見であると思う。
さて、このディベートを聞いていた一人の学生が終了後にこんな意見を述べた。
否定論者は医療者を中心として話を進めている。賛成論者は患者中心に話を進めている。
だからいつまでたっても平行線だと。
人間は他者を100%理解することはできない。
しかし理解しようとした結果、部分的に相手の立場に自分を置き換えることはできる。
そこには想像力が必要だ。
想像力の欠如は人間の判断を大きく誤らせる。
さて、ここからはワタシの個人的な意見として積極安楽死、
その行為自体を誰かがするのだと考えた場合、ワタシは反対の姿勢を取らざるをえない。
だが、一方で死刑には賛成してしまう矛盾。
なぜここで死刑が出てくるのか。そこがこの問題の本質であり、カギになる。
今現在は積極的安楽死は刑法上違法であるが、仮にいくつかの条件の下合法になるとしたら、
"合法的に人の命に関わるという行為"という点において死刑となんら変わりはない。
手を下した人物は殺人・自殺幇助の罪から合法的に守られるのだ。
だからここではこの両者を同列に扱ってみる。
まぁ死刑囚は病気でもないし、死を望んでもいないので一概に同列に扱うことには
異議があるかもしれないが・・・。
どちらの行為にしても手を下した人物は日本の法律には守られるが、
自分自身の固い決心をはっきりと持っていないと罪悪感にさい悩まされることになりかねない。
そのため死刑執行はボタンが複数あり、複数の人数で執り行う。
自分がやったという罪悪感からの逃げ道を作っておくのだ。
そういう経緯を含めると自分には今生命が宿っている人に投薬することに
どうしても心理的抑制がかかってしまう。
それが反対の本当の理由なのかもしれない。
もちろん、仕事としてやれということになればできるだろう。
だが、それはワタシの仕事が義務というある意味非常に強制的で、
またある意味非常に不都合で流動的な行動形式に左右されているからに他ならない。
義務を否定しているわけではないが、
そこにはワタシ個人の私情を挟むことは許されないのだ。
私情を挟むと義務は成立しない。
大地震が起きたらといって、患者をさておき自分の家族の元へそそくさと
帰ることは許されないのだから。
看護師としてやらなければならない仕事となってしまえば、やらざるを得ない。
どうしても出来なければ職場を変えるしかない。
私情と職務は別。
教師にしても、警察官にしても、その辺はなんら変わりはない。
ディベート終了後の教授の言葉が思い出される。
「もし、あなたがすることになった場合、あなたにその行為が出来ますか?」
安楽死には積極的安楽死と消極的安楽死のふたつがあり、
この両者の違いをまず説明する。
積極的安楽死
薬物を投与するなどの積極的方法で死期を早めること。いわば医療の名の下に行われる自殺幇助ということになり、社会からの心理的抵抗は大きい。
また、日本を含む多くの国では刑事犯罪として扱われる。
消極的安楽死
無意味な延命治療、努力をしないで死に致しめること。尊厳死を保つ意味からも合理的で社会的に認知されており、実際の医療現場でもひろく行われる。
自然に死を迎えるという意味でナチュラルコースとも。
例として、呼吸の停止した患者に人工呼吸器を取り付け、その後自発呼吸がないのに取り外すのは積極的安楽死となる。
最初から人工呼吸器を取り付けない(心肺蘇生法を施さない)のは消極的安楽死である。ほぼ同等の行為でありながら
片方は認められていない行為となるため、救命・延命をどこまで行うかは事前によく検討して合意を形成しておく必要性が高い。
以上wikipediaより引用。
さて、ここでただ安楽死についてごにょごにょと説明してもつまらないので
興味のある方は別途調べていただきたい。
今回ワタシはこの議題が短大のディベートであがったときに、
実にクラスの7割以上が積極的安楽死に賛成したことを問題にしたい。
正直、これは驚きの現象だった。
ディベート当日、ワタシは積極的安楽死に否定論者の一人として議論に加わった。
ワタシを含む否定的な論者の基本理論は積極的安楽死=殺人、自殺幇助ではないかと。
医療者はどんな場合においても生命を尊ぶべきであり、
たとえ耐えがたい苦痛などの事情があってもそれをどうにか緩和できる手段を用いて
最大限の努力をするべきである。積極的安楽死は最後の一線を越えてしまっている。
というもの。
一方賛成論者は、患者にとってはもう他に苦痛を緩和する手段がない場合に
同意の下に行っているのだからあってもいいではないか。
つまり、否定論者が言う「最大限の努力」をし尽くした結果もう手段がないから
認めてもいいのではないかというものだ。
患者のことを何より思っての優しい意見であると思う。
さて、このディベートを聞いていた一人の学生が終了後にこんな意見を述べた。
否定論者は医療者を中心として話を進めている。賛成論者は患者中心に話を進めている。
だからいつまでたっても平行線だと。
人間は他者を100%理解することはできない。
しかし理解しようとした結果、部分的に相手の立場に自分を置き換えることはできる。
そこには想像力が必要だ。
想像力の欠如は人間の判断を大きく誤らせる。
さて、ここからはワタシの個人的な意見として積極安楽死、
その行為自体を誰かがするのだと考えた場合、ワタシは反対の姿勢を取らざるをえない。
だが、一方で死刑には賛成してしまう矛盾。
なぜここで死刑が出てくるのか。そこがこの問題の本質であり、カギになる。
今現在は積極的安楽死は刑法上違法であるが、仮にいくつかの条件の下合法になるとしたら、
"合法的に人の命に関わるという行為"という点において死刑となんら変わりはない。
手を下した人物は殺人・自殺幇助の罪から合法的に守られるのだ。
だからここではこの両者を同列に扱ってみる。
まぁ死刑囚は病気でもないし、死を望んでもいないので一概に同列に扱うことには
異議があるかもしれないが・・・。
どちらの行為にしても手を下した人物は日本の法律には守られるが、
自分自身の固い決心をはっきりと持っていないと罪悪感にさい悩まされることになりかねない。
そのため死刑執行はボタンが複数あり、複数の人数で執り行う。
自分がやったという罪悪感からの逃げ道を作っておくのだ。
そういう経緯を含めると自分には今生命が宿っている人に投薬することに
どうしても心理的抑制がかかってしまう。
それが反対の本当の理由なのかもしれない。
もちろん、仕事としてやれということになればできるだろう。
だが、それはワタシの仕事が義務というある意味非常に強制的で、
またある意味非常に不都合で流動的な行動形式に左右されているからに他ならない。
義務を否定しているわけではないが、
そこにはワタシ個人の私情を挟むことは許されないのだ。
私情を挟むと義務は成立しない。
大地震が起きたらといって、患者をさておき自分の家族の元へそそくさと
帰ることは許されないのだから。
看護師としてやらなければならない仕事となってしまえば、やらざるを得ない。
どうしても出来なければ職場を変えるしかない。
私情と職務は別。
教師にしても、警察官にしても、その辺はなんら変わりはない。
ディベート終了後の教授の言葉が思い出される。
「もし、あなたがすることになった場合、あなたにその行為が出来ますか?」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます