汝 神に見放されし時 自らの手で運を掴め
ワタシの勤務する救命センター内には、
重症の方が入るEICUの他に、比較的状態が落ち着いてきたり、
そもそも気管内挿管などが必要ない方が入るEHCUという病棟がある。
スタッフは月ごとの持ち回りのためワタシのチームは今月はEHCU、
来月はEICUというように切り替わっていく。
さてそのEHCU(Emergency High Care Unit)で、バイクの交通外傷で入院、
主病名は外傷性血気胸という方と話したときのことを少しお話しする。
その方はバイク事故の際に胸を強く打ったため胸腔内に出血があり、
その上肺に吸った空気が胸腔の外、皮下や外部に漏れてしまう「血気胸」という病態である。
そのため漏れた空気や血液が肺を圧迫(圧排)し呼吸不全に陥る。
この状態に対して何をするかっつーと、要は漏れ出た空気や溜まった血液を外へ
逃がしてあげる必要があるので、胸にドレーンを入れる。
ドレーンは簡単に言うとチューブだ。(胸腔ドレーン)
しかも、生理的には胸腔内は陰圧のため、それを維持するために水封する必要がある。
ブスリ、と肋骨の間にぶっとい管を入れるのだ。
しかも入れるときはトロッカーカテーテルっちゅう、
なんていうの、剣みたいな槍みたいな、もうオモチャとしか言いようのない
ものがチューブの中に入っててそれを突き刺す。(表現はまさにコレ)
これの挿入は何度見ても痛い。痛すぎる。。。。
麻酔なんて表面だけだからね。
っていうか、この辺の説明はいらん。
医療関係者なら分かると思うし、今回のトピックスに関係ないので。。。
事故にしろ病気にしろ、ワタシは医療者として「運」というものを考えるようになった。
その方に言ったワタシの言葉。
「本当に、運がよかったんです」
患者さんは「なぜ?」みたいな顔をした。
こんなにつらい思いをしているのに。
少し身体を動かすだけで痛いのに。。。
しかし、ワタシは続けた。
ここには同じような交通事故でたくさんの患者さんが来ます。
でも、中には頭を打って出血してしまい、何ヶ月も意識が朦朧としていたり、
自分で呼吸が出来なくて機械が変わりにしていたり、
背骨を折ってしまって一生首から下が動かない状態で過ごすことを余儀なくされたり・・・
でも、○○さんは今治療をしっかりすれば確実に元の生活に戻れます。
痛み止めを使っても使っても・・・それでも痛いけど、これを乗り越えれば確実に治ります、と。
「そっか・・・運が良かったんですね。。。」
ワタシは基本的に、安易に頑張ってとは言いたくない。
だってもうすでに頑張っているのだから。
逆に頑張る前にブーブーいう人もいる。
そういう人にはまた別の関わりが必要だが。
その患者さんは、何度か話しているうちに
今の状態にとても前向きさが感じられたのでそういう話をした。
中にはそんな人のことなど関係ない、とにかく痛みをどうにかしれくれという方もいる。
でも、それはそれで仕方がないと思う。
痛いものは痛い。
胸に管を刺され、抜けないように糸で結ばれているのだ。
ワタシなど、人差し指のササクレでわめいている。
痛みや病態を受容することにも時間が必要だ。
とにかく、その患者さんとはそういう話をした。
つくづく、「運」というものは冷徹だと思う。
その人はまだ若い。30代。
これからの人生のほうが長いだろう。
中には10代そこそこで命を落とす人もいる。
違いはほんの少しだ。
ブレーキをほんの0コンマ何秒速いか遅いかかもしれない。
事故の時に前に乗っていたか、後ろに乗っていたか。
座席を倒していたかどうか。
些細なことが、その後の人生を大きく狂わすことになる。
想像ではない。
実際に目の前にいる患者さんがそうなのだ。
それはもう、「運」だったとしか言いようがない。
深く考えに考えようと思えば、いくらでも哲学的に考えることができる。
だが、それではこちらの身体がもたない。
これも悪い表現だが、どこかで「他人のこと」と思わなければやってられない。
さて、運と言えば高校時代に尊敬する数学の先生が教えてくれた
トイレの落書きを思い出す。
汝 カミに見放されし時 自らの手でウンを掴め
トイレの紙も、人の生命も、同じ「運」なのだと思う。
「この世」という意味においては、トイレットペーパーも、
ワタシ達の命も「単なる物質」ということに変わりはない。
人間が勝手にその命を大切だと思っているだけだ。
そういう不条理の中で、ワタシ達は生きている。
ワタシの勤務する救命センター内には、
重症の方が入るEICUの他に、比較的状態が落ち着いてきたり、
そもそも気管内挿管などが必要ない方が入るEHCUという病棟がある。
スタッフは月ごとの持ち回りのためワタシのチームは今月はEHCU、
来月はEICUというように切り替わっていく。
さてそのEHCU(Emergency High Care Unit)で、バイクの交通外傷で入院、
主病名は外傷性血気胸という方と話したときのことを少しお話しする。
その方はバイク事故の際に胸を強く打ったため胸腔内に出血があり、
その上肺に吸った空気が胸腔の外、皮下や外部に漏れてしまう「血気胸」という病態である。
そのため漏れた空気や血液が肺を圧迫(圧排)し呼吸不全に陥る。
この状態に対して何をするかっつーと、要は漏れ出た空気や溜まった血液を外へ
逃がしてあげる必要があるので、胸にドレーンを入れる。
ドレーンは簡単に言うとチューブだ。(胸腔ドレーン)
しかも、生理的には胸腔内は陰圧のため、それを維持するために水封する必要がある。
ブスリ、と肋骨の間にぶっとい管を入れるのだ。
しかも入れるときはトロッカーカテーテルっちゅう、
なんていうの、剣みたいな槍みたいな、もうオモチャとしか言いようのない
ものがチューブの中に入っててそれを突き刺す。(表現はまさにコレ)
これの挿入は何度見ても痛い。痛すぎる。。。。
麻酔なんて表面だけだからね。
っていうか、この辺の説明はいらん。
医療関係者なら分かると思うし、今回のトピックスに関係ないので。。。
事故にしろ病気にしろ、ワタシは医療者として「運」というものを考えるようになった。
その方に言ったワタシの言葉。
「本当に、運がよかったんです」
患者さんは「なぜ?」みたいな顔をした。
こんなにつらい思いをしているのに。
少し身体を動かすだけで痛いのに。。。
しかし、ワタシは続けた。
ここには同じような交通事故でたくさんの患者さんが来ます。
でも、中には頭を打って出血してしまい、何ヶ月も意識が朦朧としていたり、
自分で呼吸が出来なくて機械が変わりにしていたり、
背骨を折ってしまって一生首から下が動かない状態で過ごすことを余儀なくされたり・・・
でも、○○さんは今治療をしっかりすれば確実に元の生活に戻れます。
痛み止めを使っても使っても・・・それでも痛いけど、これを乗り越えれば確実に治ります、と。
「そっか・・・運が良かったんですね。。。」
ワタシは基本的に、安易に頑張ってとは言いたくない。
だってもうすでに頑張っているのだから。
逆に頑張る前にブーブーいう人もいる。
そういう人にはまた別の関わりが必要だが。
その患者さんは、何度か話しているうちに
今の状態にとても前向きさが感じられたのでそういう話をした。
中にはそんな人のことなど関係ない、とにかく痛みをどうにかしれくれという方もいる。
でも、それはそれで仕方がないと思う。
痛いものは痛い。
胸に管を刺され、抜けないように糸で結ばれているのだ。
ワタシなど、人差し指のササクレでわめいている。
痛みや病態を受容することにも時間が必要だ。
とにかく、その患者さんとはそういう話をした。
つくづく、「運」というものは冷徹だと思う。
その人はまだ若い。30代。
これからの人生のほうが長いだろう。
中には10代そこそこで命を落とす人もいる。
違いはほんの少しだ。
ブレーキをほんの0コンマ何秒速いか遅いかかもしれない。
事故の時に前に乗っていたか、後ろに乗っていたか。
座席を倒していたかどうか。
些細なことが、その後の人生を大きく狂わすことになる。
想像ではない。
実際に目の前にいる患者さんがそうなのだ。
それはもう、「運」だったとしか言いようがない。
深く考えに考えようと思えば、いくらでも哲学的に考えることができる。
だが、それではこちらの身体がもたない。
これも悪い表現だが、どこかで「他人のこと」と思わなければやってられない。
さて、運と言えば高校時代に尊敬する数学の先生が教えてくれた
トイレの落書きを思い出す。
汝 カミに見放されし時 自らの手でウンを掴め
トイレの紙も、人の生命も、同じ「運」なのだと思う。
「この世」という意味においては、トイレットペーパーも、
ワタシ達の命も「単なる物質」ということに変わりはない。
人間が勝手にその命を大切だと思っているだけだ。
そういう不条理の中で、ワタシ達は生きている。