うちのおかんの実家は横浜の下町、藤棚(横浜市西区)である。
戸部駅から歩けば5分の藤棚商店街の通り裏に昭和幾年に建てられたトタンの家がある。
幼い頃から歩きなれた藤棚近辺は梅雨の時期を過ぎれば縁日が9日19日29日と「9」のつく日に開催され、多くの露店が灯を連ねた。
地元の下町小童に混じってワタシもよく金魚すくいだの、
りんごあめだの、ちんちん焼き(*1)だの、小銭を片手に通っていたものだ。
もう何年も足を運んでいないが、今時分は昔ほどの盛況ではないと聞く。
そもそも時代の流れで古き商店がシャッターを下ろすのを寂しげに見ていた自分を思えば、それも仕方のないことかもしれない。
藤棚商店街は隣の久保町商店街とあわせ、
西区戸部から保土ヶ谷区西久保町(*2)にかける間に位置し、休日には多くの人で賑わいをみせていた。
今でこそマグロの解体で有名な保土ヶ谷天王町の松原商店街が全国区に名を馳せているが、
ワタシの幼い頃、昭和60年代までは藤棚も久保町も同様の賑わいだったように思える。
近年放送された「喰いタン」の第一シリーズでコロッケが出てくる話があったが、
それはワタシもよく通った藤棚商店街の一角にある昔からある肉屋のものだ。
今でもたまに買い物に行くが、そのときにおかんの姉、つまりワタシの叔母が聞いて来た。
ちなみにその肉屋のせがれだか娘は叔母の同級生だ。
そんな肉屋はまだ健在だが、それは珍しいほうで行く度につくだ煮屋だとか
生肉店とか、中華屋までもが消えてなくなっている。
藤棚の正面から浦舟へ向かい関東学院の坂を下ると黄金町、
そこを左へ行けば日の出町、右へ行けばY高のある南太田・井土ヶ谷。
一方、裏側から御所山という交差点を抜け、まっすぐ進めば高島町。
交差点を右に伊勢山方面へ行き、紅葉坂を下りると桜木町だ。
どこへ行くにも車で5分程度、頑張って歩きでも15~20分程度だ。
戸部駅とは逆、商店街を挟んで反対側に相鉄西横浜駅がある。
ワタシは相鉄線を使うので、藤棚へ電車で行くときはよくこの駅を利用した。
駅を降りると目の間には国道1号、すなわち東海道が横たわる。
それを渡りまっすぐ進めば商店街の入り口だ。
ワタシが幼い頃、よくその道を一人で歩いていると途中の商店の脇に、
今はあまり見かけない成人雑誌の自販機を横目にするのが常だった。
小学生の自分が妙に気になり、あわよくば中を見てみたいと興味を持ったのは言うまでもない。
その向かいには怪しいピンク色の小店もあった。
そんな通りの脇を幼い子を連れた母親が暖かい日差しの中を歩いている。
だが、下町にはそんな光景が普通だった。
子供は幼心に大人に聞いてはいけないことを察し、世の中のそういう部分を学ぶのだ。
そういう部分に触れなければ学ぶことはできないのに、今はそれを隔離しようとする。
それは清潔を意識しすぎた日本人が、細菌やウィルスの脅威に対して
免疫がないと言われることに似ている。
そこにあった街並みも今は昔の話。
今では空き店舗が増えて休日でも人はまばらだ。
量販店の煽りをもろに受けたと言えば、松原に比した言い訳に聞こえるかもしれない。
だが、紛れもなく、寂れた商店街になった。
まだ残るなじみの店もいつまで続くか分からない。
街は生きている。
寂れた街の反対側では、今日も光の消えぬみなとみらいの街がある。
みなとみらいもここ20年の話。
ワタシにとってはどちらも変えがたい街なのは、言うまでもない。
だが、そこに、一方に肩入れできない侘しさがある。
*1:ちんちん焼き-小さいカステラパン。
昔横浜の街のいたるところにちんちん電車=市電が通っていた。
*2:久保町-行政区分で「久保町」は西区、「西久保町」は保土ヶ谷区である。
戸部駅から歩けば5分の藤棚商店街の通り裏に昭和幾年に建てられたトタンの家がある。
幼い頃から歩きなれた藤棚近辺は梅雨の時期を過ぎれば縁日が9日19日29日と「9」のつく日に開催され、多くの露店が灯を連ねた。
地元の下町小童に混じってワタシもよく金魚すくいだの、
りんごあめだの、ちんちん焼き(*1)だの、小銭を片手に通っていたものだ。
もう何年も足を運んでいないが、今時分は昔ほどの盛況ではないと聞く。
そもそも時代の流れで古き商店がシャッターを下ろすのを寂しげに見ていた自分を思えば、それも仕方のないことかもしれない。
藤棚商店街は隣の久保町商店街とあわせ、
西区戸部から保土ヶ谷区西久保町(*2)にかける間に位置し、休日には多くの人で賑わいをみせていた。
今でこそマグロの解体で有名な保土ヶ谷天王町の松原商店街が全国区に名を馳せているが、
ワタシの幼い頃、昭和60年代までは藤棚も久保町も同様の賑わいだったように思える。
近年放送された「喰いタン」の第一シリーズでコロッケが出てくる話があったが、
それはワタシもよく通った藤棚商店街の一角にある昔からある肉屋のものだ。
今でもたまに買い物に行くが、そのときにおかんの姉、つまりワタシの叔母が聞いて来た。
ちなみにその肉屋のせがれだか娘は叔母の同級生だ。
そんな肉屋はまだ健在だが、それは珍しいほうで行く度につくだ煮屋だとか
生肉店とか、中華屋までもが消えてなくなっている。
藤棚の正面から浦舟へ向かい関東学院の坂を下ると黄金町、
そこを左へ行けば日の出町、右へ行けばY高のある南太田・井土ヶ谷。
一方、裏側から御所山という交差点を抜け、まっすぐ進めば高島町。
交差点を右に伊勢山方面へ行き、紅葉坂を下りると桜木町だ。
どこへ行くにも車で5分程度、頑張って歩きでも15~20分程度だ。
戸部駅とは逆、商店街を挟んで反対側に相鉄西横浜駅がある。
ワタシは相鉄線を使うので、藤棚へ電車で行くときはよくこの駅を利用した。
駅を降りると目の間には国道1号、すなわち東海道が横たわる。
それを渡りまっすぐ進めば商店街の入り口だ。
ワタシが幼い頃、よくその道を一人で歩いていると途中の商店の脇に、
今はあまり見かけない成人雑誌の自販機を横目にするのが常だった。
小学生の自分が妙に気になり、あわよくば中を見てみたいと興味を持ったのは言うまでもない。
その向かいには怪しいピンク色の小店もあった。
そんな通りの脇を幼い子を連れた母親が暖かい日差しの中を歩いている。
だが、下町にはそんな光景が普通だった。
子供は幼心に大人に聞いてはいけないことを察し、世の中のそういう部分を学ぶのだ。
そういう部分に触れなければ学ぶことはできないのに、今はそれを隔離しようとする。
それは清潔を意識しすぎた日本人が、細菌やウィルスの脅威に対して
免疫がないと言われることに似ている。
そこにあった街並みも今は昔の話。
今では空き店舗が増えて休日でも人はまばらだ。
量販店の煽りをもろに受けたと言えば、松原に比した言い訳に聞こえるかもしれない。
だが、紛れもなく、寂れた商店街になった。
まだ残るなじみの店もいつまで続くか分からない。
街は生きている。
寂れた街の反対側では、今日も光の消えぬみなとみらいの街がある。
みなとみらいもここ20年の話。
ワタシにとってはどちらも変えがたい街なのは、言うまでもない。
だが、そこに、一方に肩入れできない侘しさがある。
*1:ちんちん焼き-小さいカステラパン。
昔横浜の街のいたるところにちんちん電車=市電が通っていた。
*2:久保町-行政区分で「久保町」は西区、「西久保町」は保土ヶ谷区である。